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痛み

一昨日から膝が痛い。日中、歩いている時にズキっという痛みを感じていたが、夜になって本格的に痛くなってきた。

以前、ロルフィングを受けた際、日常的な身体の痛みを訴えると「痛くないように使うんです」と言われてはっとしたことがあった。もちろん痛みの原因に対処することも大事だけれども、痛みはすぐに消えることはなく、現にそこにあるわけだから、あるものとして淡々とおつきあいをするしかない。

今回の膝の痛みも同じだ。だからソロソロと痛く無い歩き方を探ろうとするが、上手くいかない。どういう訳かむしろ痛くなるように歩いてしまう。と書いてはたと気づいた。時々、ズキっとする痛みが走るため、私は上手く歩けていないと解釈している。時々ぐらいだったら大抵は痛く無い訳だから、上手く歩けていると思ってもいいのではないか。

そもそも上手く歩くよりも、私は痛みにすっかり絡みとられている。そうなると痛かったらどうしようの妄想にとりつかれ、QOLが一気に下がる。全てがどうでも良くなってきて、最低限生きていればよいとなり、食事や掃除など身の回りのことに手を抜く。化粧水の塗り方がぞんざいになり、いやいやながらなんとか頑張って塗っていた乳液やボディークリームはここぞとばかりに放棄。

唐突に気付いた。
私は案外頑張らずに済む口実が出来てほっとしているのではないか。

「だってわたし膝が痛いんだもん」

という声が聞こえたような気がした。頑張って化粧水を塗り、頑張って乳液を塗り、頑張ってボディークリームを塗る。頑張って布団から出て、頑張ってカーテンを開け、頑張ってゴミを捨てに行く。頑張って電車に乗って、頑張って会社に行って、頑張って頑張って頑張って働いて、惚けたようになり帰宅する。それでもあれが出来ない、これがダメと自己批判は止まない。

そうだよなあ。膝痛いよなあ。痛いのは辛いよなあ。膝、痛いから頑張れないよなあ。色々出来なくてもしょうがないよなあ。

昨日、なにやったっけ。一昨日、一日中、座ってたからか。身体冷やしたかな。湿布を貼って、お風呂で暖める。痛みの変化に注視する。原因探しと痛みを取り除くことだけで頭がいっぱいになっていた。痛みがある自分の身体のことを労る気持ちはどこにもなかった。

するとふと幼い頃を思い出した。私は病気がちで度々熱を出し、学校を休んでいた。入院したりもしていた。そんな私に対して思い出の中の母は私の身体を労るという感じではなかった。

悪い病気ではないかと必死の形相で病院に連れて行き、いつもとても気が立っていた。心配していることはわかっていたが、繰り返されることですっかり私は自分がとても悪い事をしているような気持ちになった。熱が出たことに気がついても、母の機嫌が悪くなることを思うと、なかなか言い出す事が出来ずに、ぎりぎりまで我慢するようになった。

母も同じだったのだ。
余裕が無かったのだ。
母も頑張っていたのだ。

「だって熱があって辛いんだもん」

この思いを汲み取る余裕が無かった。母も私も何のために頑張っているのか見失っていた。

「だってわたし膝が痛いんだもん」と訴えている自分のためではないのか。
「だって熱があって辛いんだもん」と言えずにいる娘のためではないのか。

母の思いが当時の私に伝わらなかったように、私の思いも身体に伝わっていないのかもしれない。事実、「だってわたし膝が痛いんだもん」という声を聴いた時、膝の痛みが引くのを感じた。

今、大人の私は、「だってわたし膝が痛いんだもん」という声に耳を傾けよう。そして「膝痛いの辛いね。」と言ってあげよう。

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