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【エッセイ】未来とクソッタレに溢れた成人式

どうも、三代朋也です。
2023年、お疲れ様でございました。
本当に、怒涛の一年でございました。創作活動に於いても、個人的な部分の変化に於いても、怒涛怒涛怒涛でございました。
本当はね。本当は「2023を振り返ってみよう!」という記事にしようと思っていたんです。一月、二月、三月…と順番に振り返っていこうと思ったのですが、一月の成人式の話で色んな話を思い出してしまって、とんでもない長文記事になってしまいそうだったので、一旦止めました。
師走に成人式の思い出を書くという変な記事になってしまいましたが、まあ、あと2週間もしたら来るし、お手柔らかによろしくお願いいたします。

先にご挨拶を。
これが、今年、最後の記事になるかと思います。
2023年。たくさんの方の応援と、協力、そして様々な縁がありまして、様々な経験をさせていただきました。簡単に言うと、今年は憧れの映画館で自分の映画がかかり、舞台公演をしてワンマンライブをして、ピンク映画に出演して、かつ、映画の主題歌を制作させていただきました。なんじゃこれ。
つくづく、1人では何も出来ないと思う一年であり、感謝の絶えない一年でございました。
来年は、自分らしく、でもたまには流れに任せて、もっともっと学びたいことを学んでいきたいです。そして、好奇心に正直に、“気持ち悪い”ことをしていきたいと思いますので、2024年も何卒、よろしくお願い致します。
よいお年を。

未来とクソッタレに溢れた成人式

緊張

去年のお正月、埼玉に帰った私ですが、全くゆっくり出来なかったのを覚えています。
年明け早々、家族で東京タワーを見に行ったり、幼馴染たちと17年ぶりに東京ディズニーランドに行ったり、忙しく遊んでいました。ただ、頭の中には3月に控えている舞台のことが片隅にあって、休もうにも遊ぼうにも、気が気ではありませんでした。
そんな怒涛のお正月でしたが、今年は大きなイベントがありました。
成人式です。

成人式の朝。スーツに袖を通した時に、緊張していた自分がいました。
何に緊張していたのか、確かには分かりませんが、これから「成人」という、形式上、「大人」というカテゴリーに参加すること。そして一番は、小中学校の面々と顔を合わせることが何よりの緊張でした。
私にとって小中学校は、はっきり言って、暗黒時代、恥部でした。
自分と他人に嘘をつき続けた、どうしようもない時代。その時代を思い出すことを躊躇している自分がいましたから、成人式の会場に、真っ直ぐと足は向かいませんでした。
しかし、実際に当時の面々と合わせた時に生まれた感情は、闇だけではありませんでした。


反射神経の悪い卓球部

私は高校を地元から遠くの場所に選びました。理由は後々。
周りにも何人かそういう人間はいましたが、地元のみんなからしたら、所謂、レアキャラでした。
会場の前には何人かの集まりができていました。そこには、当時部長をしていた卓球部の集まりがありました。半ば、強制的にやっていた部長。顧問の先生に誰1人卓球の技術とやる気がないという、変な部活でした。それを回さなければいけない私にとって、ストレスでしか無かった部活でしたが、そんな過去も吹き飛ぶくらい、かつての部員たちは面白かった。

「そうそう、こいつとは長すぎる休憩時間をずっと冗談を言っていた。」
「そうそう、こいつは無断欠席、遅刻が多すぎて、途中から笑いながら出迎えてた。」
あの無駄な時間が今の自分を形成していると思うと、なんだか身が軽くなる自分がいました。

ただ、異変に気づくんです。
「△△、なんか痩せた?」
「○○、バカだったよな〜。」とか。
「××やん、休みすぎだった。」とか。
そういう名前が出る話の中に、一向に、自分の名前が出てこない。
その中でようやく、高校でも何度か連絡を取っていた友達が、
「ともくんはさ…」
と言った瞬間。

「え、ともくん!!??!!??」

と、部員4.5名から大きな声が響きました。
そうだった。かつての僕はメガネ坊主でした。
部長のあまりの変貌ぶりに、部員はしばらく狼狽えていました。
にしても、15分間くらい、知らんパーマと話してた時間があるのは、反射神経が無さすぎるのでは?卓球部のくせに。

ちなみにその後に行った会場で、初見で気づいてくれたのは数名で、まるで透明人間の気持ちでした。


板橋

卓球部員の話をもうひとつ。
私は小学校1年生から6年生の間、バドミントンをしていました。
その当時からダブルスのペアとして組んでいた、板橋という友人がいました。彼は小2から組んでいて、弟や妹と遊んだり、板橋家のお出かけについて行ったりと、家族ぐるみで仲良くさせていただいて、中学校も同じ卓球部でした。
恐らく、小学校時代に一番喧嘩したのが彼でした。
彼は、いつも私より先にいました。バドミントンも強い。頭も良い。いつも合理的。彼女もいた。勝っているのは身長だけ(背の順で1番と2番でした)。
そんな彼は私にとって、良い友人と嫉妬の対象として、いつも見ていました。劣等感まみれだった僕は、板橋にどうしようもない感情をぶつけていたようにも思います。情けない。
中学1.2年の頃は関わっていましたが、新しい環境が進むにつれて、なんとなく疎遠になっていました。

5年ぶりに、板橋と会いました。板橋は変わっていました。
合理的でプライドの塊のようだった彼は、なにか、「余暇」のようなものを楽しんでいるようでした。自衛隊に進むつもりのようで、ひょろひょろだった腕は太く、背中は逞しく育っていました。
板橋とは不思議なことに、昔のことは少ししか話しませんでした。
「妹と弟がこんなに大きくなった」「お父さんが禿げ始めた」「今どこに住んでいる」など、今のことを話しました。お互いに、笑いながら。
いつも雨雲が頭上にあるような板橋に、当時の僕は何もしてやれなかった。何もしてやれなかったが故に、僕は嫉妬という感情を押し付け、距離を置いていました。

「板橋…。こんなに背中大きくなって……。あんなに小さかったのに……。」
「それは朋也もだろ(笑)」

笑う板橋を見て、私は心から嬉しく思いました。そこに嫉妬という醜い感情はなく、ただ、成人という兆しを越えた私たちへ、今と未来を祝福する時間が流れました。


気持ち悪いこと

あともうひとつ、二度と忘れない出来事がありました。
レアキャラの私に、何人かの方が声をかけてくれました。

「映画作ってるんだってね!すごいじゃん!」
「映画観た!面白かった!」

どこからか分かりませんが、少なからず、地元のみんなにも、自分の表現活動が届いていることを嬉しく思いました。
遠くの、しかも芸術系の高校に行くことを知っている人間は少なかったと思うので、とても感動しましたし、ありがたいことだなと感じました。
中には、こんなことを言ってくれる人もいました。

「ずっと続けてたもんね。」

中学時代、僕はYouTubeをしていました。
父の影響で、映像には中一の時から興味を持っていたので、当時の僕にとっては自然なことでした。そこで映像編集や脚本、企画、トーク、様々なものを学んだように思います。
そういう僕の「継続」の部分を褒めてもらえるのは、心が温かくなります。

当時も、僕の作った動画で、「この前のあれ面白かった!」と、何人かが笑ってくれていました。しかし、本当に楽しんでくれた人も、協力してくれた人も何人か居ましたが、中には僕の活動を嘲笑する奴も居ました。というか、ほとんどがそういう奴らでした。

出る杭は打たれると言いますか、当時の彼らにとって、動画を作ることは、奇妙だったようです。そりゃそうです。あそこは運動が出来て、かつ、声がデカいやつがモテるといった、小さな箱でしたから。
確かに、恥ずかしい事をしていたこともあると思いますが、当時の僕は一生懸命に、やりたいことを学んでいました。折れないように、目を瞑って、耳を塞いで、嘘をつき続けて、淡々と。

そして、ある日。サッカー部のヤツが電話で僕に言いました。

「いつも変なことやってて、気持ち悪い。」

その瞬間に、僕は決意しました。
「こんな奴がいる場所なんか、離れてやろう」
僕は、ここに居たら壊れると思いました。

さて、成人式後の飲み会も佳境に入って参りました。
夜も更けてきまして、二次会の会場へ移動するようです。
会計や、みんなが降りてくるのを、店の前で待っている時に、ヤツが話しかけてきました。
どんな嘲りが待っているんだろうと構えていましたが、ヤツは、興奮した様子で言いました。

「俺さあ、ともくんの映画さあ、観たよ。めっちゃ良かった」
「俺さあ、映画好きでさあ、興味あるんだよね」
「本当に良かった、尊敬する」
「カメラも自分で撮ったの?」
「ああいうのってさどうやって思いつくの?」
「学校でさ、そういう勉強するの?」
「マジであれ良かった。尊敬する、良かったらさ、2次会でちょっと教えてよ。」

私は一言だけ、ヤツに言いました。
「自分で勉強した方が身になるよ」

ヤツは「う〜〜ん、でも。」と唸り、教えてと、繰り返すだけでした。
その時私は、あの恥部と思っていた3年間を誇りに思いました。
ヤツが「気持ち悪い」と吐き捨てたそれは、ヤツが学びたかったものでした。
そして私は、二次会に行かずに家に帰って、3月に公演する脚本を読み直すという、“気持ち悪い”ことをしました。

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