桜嵐記〜月組の「今」に万雷の拍手を送りたい話〜

1度でも驚くほど心に残るお芝居だったが、2度みるとさらに、焼き付けられたように1度目の記憶と繋がって、絵が浮かび上がるお話だった。
ムラの初日があいて2週目で観に行ったのと、先週、東京の千秋楽を翌週末に控えた、高まった姿との違いもあるやもしれぬが、上田先生の本領と、月組の本領とが見事に発揮されて、美しく、尊く、悲しくもあり、喜ばしくもある物語に仕上がっていた。

月組のお芝居は好きで、誰がとは言えないがその団体力に惚れ込んでいるのだが、今回なかなか回数が取れず、ほとんどの美味しいところを見逃している気がする。それでも上田先生の御本の巧みさでこれほど美しいものが見られて、嗚呼何故後一回、足さなかったのかと半泣きになりながら、立ち見の記憶を引っ張り出してこの通り、言葉を尽くして書いてみた。
千秋楽の前には自分の気持ちをまとめようと思っていたが、まさか本当に前夜になるとは。しかもほとんど1日仕事。

自分のための覚書でもあるので、まさか最後まで読んでくれるような奇特な人は少ないと思うが、それでも、もしか読んでくれた人が、そうだよね、とか、そうかな?とか、考えを巡らせる助けにでもなれば、幸いです。


 幕開き、珠城りょうという名前に拍手をしたい観客のために、物語の開演のアナウンスと、指揮者の紹介は物語とは切り離して設置し直したのは、知っている。
 確か僕がこの世界を見始めた、2014年ごろは、トップ就任作品とか、千秋楽とか、記念となる時だけしていたような気がする開演アナウンスへの拍手は、今やいつもやるものになってしまった。
 作品によっては別に今拍手せんでもとか思ったりするけど、今作は。とくに千秋楽が目の前に見えてきた今は、拍手をしたい。珠城りょうというトップスターの輝きを称えて、期待を込めて拍手をしたい。
 だから、上田先生の次善策かもしれなくとも、拍手をさせていただいてありがとう。

 そして、安心感たっぷりの佐々田愛一郎先生の指揮。
 正確で繊細で情緒のある、綺麗に指を揃えて振る左手が印象的な佐々田先生にも大いに拍手を。指揮者に拍手させてくれることに、宝塚のオケが戻ってきた嬉しさを噛み締めている。もう数ヶ月もそう思っているけどきっと当分、オケがそこにいることに歓喜するのだろう。
 演目中、観客の拍手の音を聞いて、ピタリのタイミングを測って先に進める指揮者のおかげで、観客も演者も思う存分心置きなく作品に浸れるのです。いつもありがとうございます。

 余計な話だが、東京のオーケストラは、ムラとはノリが違うなあ。と、開演前に演奏者が思い思いに音出しをしているのを聞いて思った。
 旋律をさらいながら1音ずつ出している人が多い気がするムラ。
 東京は徹底的にスケールをさらって指を動かしている。しかも短3度スケールとか、なんかめんどくさそうな音もするし。1音たりとも外さない覚悟というか、より職人気質というか、そんなものを感じる。
 どちらが優れているというわけじゃあないけど、ほんと、ちょっと思っただけのことなのだけど、書いておく。

 さて、話を戻して謎のおじいさんの語り。本当に初見の時は、これが一体誰だかわからなかったし、きっと南朝の生き残りとかそういうやつでしょうと思ったのだが、終盤見事に繋がっていくと、2度目以降はこの時点で泣けてくる。
 読んでいる人は既に知っているものとして書くが、アレは死にぞこなった、あるいは生きて意思を継いだ。死ぬことを許されなかった三男だ。そしてその語りを聞くのは、こちらもまた死ぬことを許されず、たくさんの人に置いて行かれたヒロインだ。
 南朝の滅びる間際再び邂逅して、三男正儀があの時のことを語り聞かせる。このときの上田先生の言葉の選び方もまた素晴らしい。
「南朝の仄かな西日の残るうち」
 二つの太陽のうちの一つが終わるきわを、こう表現する。
 南朝のために生きて、その南朝を終わらせるために尽力した正儀は、一体どういう心持ちだっただろうか。歳を重ねて頭領としての面も被っていて、僕ら観客からは窺い知ることのできない内心を、それでも窺おうとしてその表情を覗き込みたい。

 解説される壇上は武家と公家の簡単歴史解説。人の名前が色々出てきたような気がするが、なんとなく楠木だけ理解してあとはわすれてしまったけど、それで十分足りるから、芝居の構成が上手いのだろう。
 光月組長の長台詞のこの場面、彼女は前作でも披露した通り、絶妙な間と台詞回しとアドリブ力で優秀なコメディエンヌにもなれる。けれど、組長の芝居の凄さはこの長台詞を緩急つけて客席の耳に、意味まで込めて一言漏らさず伝える技量の高さに尽きると、僕は思う。

 そして、この解説場面のもう一つ尊いところが、場面の名前だ。
「劇場」
 パンフレットを開いて驚いた。コレはまさに我々が見ている芝居そのものなのだ。
 珠城りょうはじめ、退団者の皆が憧れ青春を全て注ぎ込んだ場所。私たちの聖地劇場から、この物語は始まる。あるいはタカラジェンヌの人生も、劇場から始まったのかもしれない。重ね合わせて、この数分の興亡にタカラジェンヌの舞台人生を思うかもしれない。きっと千秋楽の配信を見る僕は。


 簡単な解説とはいえなんとなく上手の壁の時計を見れば、トップスター登場までに6分ほどかかっている。確かバッディが4分半だったと思うと、これはまた記録的に登場までの時間が長い。でもそれがいいのよね。大事に世界を作って引き込んで、そこでやっと待ち焦がれていた主役の姿を見せるって。
 そして降り注ぐ花吹雪。白い小さな紙は、花吹雪と呼ぶとはいえ真っ白だし、桜の形もしていないし、雪のようにも見える。
 吉野の春は遠く、また南北朝合一という世の春も遠い、そんな物語の舞台だ。

 初っ端から紙吹雪を散らして、舞台上は大丈夫なのかと思ったが、杞憂。兎にも角にも歌舞伎的な美しさに、やはり紙吹雪は効果的で。
 冬から春にかけての物語において、紙吹雪は舞い散る雪のようでもあり、散る桜のようでもあって、儚くいさぎよい日本男児の散り様が珠城りょうという朴訥な魅力を持つ男役の幕切れに重ねて見える。また劇中常に足元に紙が舞うのが、思いの外邪魔ではなく、むしろ舞台の床を偶然に満ちた現実の地面に近づけているようにも思えた。
 今後何度も何度も花びらが舞うのに、一つとしてうるさくなくて、見るたびに気持ちが昂揚するこの紙吹雪も、舞台を構成する要素の一つとして、計算の末に配置されている。これほどまでに美しい舞台、きっと当面出会うことはないだろう。

 美しく弓を引く自己紹介を兼ねた戦のナンバー。
 落ち着いた長男、バカやらかしそうな、早死にしそうな三男(ある意味フラグである)
 思慮深くも臆病かとも思える次男の登場。「安全第一」という言葉に笑いを誘う上田先生の緩急の緩の付け方。
 宝塚という時代劇でありながら時代劇ではなく日本物と呼ぶ、この少しだけ決まり事のゆるい世界だから、何と無くそこにハマる言葉選びがおもしろい。

弓を持って舞う集団の美しいこと。武器を持っているということの、いつ死ぬともしれぬ恐ろしさもあり、心が震える。
 日本物に限らないけれど、こういう戦乱の世を描いた物語って、いつ目の前のキャラクターが死ぬか。そして誰かの死によって悲しみを抱えたキャラクターが幾人生まれるのか。そう、人の命の儚さの美を描くと知っているから先回りしてまだ見えもしない儚さの香りを嗅ぎ取って、華やかなだけで悲しくなる。だいぶ私も宝塚に毒されている。
 今作思いのほか序盤では人が死なない。だから終末がいっそう寂しいのは、後で書く。

 ところ変わって湯殿。あまりの悪がそこにいる。表情と仕草で、中の人の気配が見えないほど下衆で計算高いオヤジになっている彼女の芝居力は、けれども2週目になると悪に見えなくなってくるから、台本の妙と役者の妙。
 嘆願に来た祝子に、無体を命ずる高師尚。当然のようにおののき拒む女に、彼に仕える女たちが同性として味方するかと思いきや、そんなことはない。
 彼女たちはとっくに、公家としての立場と、武家の立場を理解して、自らの魅力を対価に家の利益を受け取っているのだから。
 男性演出家がこれを描いたら、どう言われるだろう。不純だとか女性蔑視だとか言われないだろうか。いや、しかし上田先生の描き方は、その先にあるはずの生々しさを想像させこそすれ、言葉は「裸身を晒してみせよ」だけだし、それを受けて脱がされるのは上着だけで、袴をしっかり履いてるし。湯殿の女性の衣装も、湯浴み着として描いていても、普通に着物だし、舞台転換のきわに脱ぎ始めるのも袴の前の紐を解くだけ。怪しいところがカケラもない。
 もし男性演出家がやってもセーフだろうな。
 このバランス感覚を持った、全年齢な、でも確実にこの後18禁に繋がる予感をさせるシーンを含む和物の演出ができる男性演出家がいるだろうかとは思うけど。

 戻って、高師尚に仕える女御の、武家の殿方の劣情をそそるほどにしか役に立たぬというセリフ。幕開きで謎の翁が語っていた、武家と公家の力関係のことを、ここで改めて想起させる。
 武家が圧倒的な力を持っていながら、公家を頂点に据えているがために起きる権力の捩れ構造と、その中で自分の家の立場を最大限活かすために、自らの大切な物を差し出しす女たち。
 女には女の戦いがあるのだろう。「公家にしては賢すぎる」と言われる女御は、その賢さを活かすところが公家の中ではなかったのだろう。
 実力主義の武家の、しかも後にも出てくる、敵をも認め身内に引き込む強かな冷静さとを持っているからこそ、女御はその賢さを表に出すことを許されるのだ。

 そう、気付いてしまうとやっぱり高師直は女好きで悪のように見えて、強かで賢く、理性のある敵方である。

「食あたりで…」と男を追い払うときのこのセリフが、適当なように見えて後でちゃんと回収されていることに、2週目のここで気が付いた。男嫌いというよりも、女好きなのだろうか。それとも、男好きの(花一揆)上司への反発か。そこもしっかり読み取る気でもう一度見ればそれはそれで面白いかもしれないけど、次は千秋楽なんだよなー。

 その、高師直のところへ向かう車にのった、「高貴なお方」弁内侍。そして主人公との出会いの場面。
 宝塚に置いてヒロインが遅れて登場するのは良くあることなので、4場で済むのは結構スピーディーなのではと少しメタなことも考えつつ、登場場面でまずは姿が見えずとも喋り声を一言聞いただけで美園さんとわかることに安心感を覚える。

 美園さんの台詞回しが西洋の吹き替えぽいというのは、本人も何かでおっしゃっていたけれども。滑舌の都合ですごく言葉をはっきり言う癖があるのよね。あと、各母音の言い方の特性も相まっていて、結果なんだか西洋被れて聞こえる。
 今作は割合古い言葉を使っているので、それを正確に聞き取れないと本当に意味が取れなくなっていくようになっている。重要な歌などは丁寧に解説をつけて紹介してくれているが、それでも、文字面を想像して、漢字を想像して意味を頭に落とし込む作業が必要なところがたくさんある。だから美園さんのはっきりと聞こえるセリフは結構好感を持っている。
 語尾を跳ね上げる、当時を再現する喋り方が本人の中で処理しきれず単調になりがちだったのは感じたが、女性のキャラクターの中ではダントツ出番が多くセリフが多く、そりゃあそうもなるよなとも。
 私たちも知らないセリフのイントネーションをある程度再現した上で、観客が聞き取って理解できるようにして。
ルサンクをちゃんと見返せていないので詳しくは書けないのだが、上田先生の書く台詞回しそのものの持つリズム感の悪さもあるかもしれない。(上田先生の書くものは、私たちが普段喋っている口語より、少しだけ文語に近いことが多い。言葉の選び方も観客の理解と使いたい言葉とのギリギリのラインを攻めて来るので、馴染まない言葉やリズム感が耳に引っかかってとても印象に残る。)
拘って選んだ言葉の流れは詩のようで好きなのである。というのは現代語の脚本の時のことだけど、古い言葉を使った脚本も幾度も繰り返せばどんどんと耳に馴染んで心地良くなっていくのであろうと、たったの2回でも思ったのです。

 ぶるるるる!っと声を上げて拉致ろうとする男たちに縋りよる、人足だったジンベエ。マスコット的に愛でられるキャラクターの存在は、まさに名バイプレイヤーの彼女にふさわしいと思う。
 公家の常識も武家の常識も持たず、百姓の立場から良識を持った彼が、私たちの視点を代弁して、女が拐われるシーンに待ったをかけ、楠木のやり方に共感してその一派に加わり、主人公の今際の際には誰より正直に感情を揺らして縋り付く。同じように私たちも物語を追いかけて、見つめて涙してくれる。そしてウン10年先まで、仕え続ける、その一番最初の場面。
 登場のシーンでは「血が〜!」と叫んで雰囲気をぶち壊し、観客の笑いを誘う。タイミング勝負の月組芝居に彼女は本当に重要なポジションを占めていると、僕は勝手にすごく信用している。
 物語の展開的にもこのぶち壊しが大事で弁内侍の武家に対する頑なな心を少し乱して、まあ、それなりの気持ちで軍と共に動くことに同意させる。
彼女だからこそできるすごいお役だと思う。

 そうそして、ここで忘れたくない我らがヒーロー珠城りょうの立ち回り。
 弓を引くモーションが如何程現実に準拠しているかと言えば、よくわからないのだが、弓を引く横顔とか、キリリとした表情とか、美でしかない。
 和物では刀や薙刀が重宝されがちだけれど。弓という武器は相手を倒したという表現がしづらく、その表現にもかなりのスペースが必要になるので宝塚ほど広いステージを持っていても、戦闘シーンで実用されることは少ないけど、でもやっぱりかっこいい。
 この作品で弓を引く珠城りょうを見せてくれて、上田先生には感謝である。途中で弓を預けて刀で戦い出すのも、お得で良い。そしてその闘うところに弓でちょっかいを出して助けようとするジンベエも素敵。
 本当なら百姓で血の怖い彼は絶対こんな直接の参戦なんかしないだろう、大河ドラマで同じようなシーンをやろうとしたら、石を投げたとか、そういう邪魔の仕方になるのだろう。
 舞台という限られた空間で、観客が俯瞰視点からしか見られないからこそ、ややコメディタッチの腰の引けた動きで敵方の武士を打擲する動きが妥当に見えるのだ。

 さっきも書いた血がー!に対する正行の行動も、的確に彼の性格を表している百姓如きでも下に見ず、一人の男として手当をしてやる。ほっときゃ治るでもなく、過剰に心配するでもなく。強いていうならば、武士の子どもにしてやるように。実際のところ気分はそんなもんかもしれない。今まで戦にでて戦っていたわけでもない、守ってやるべき存在であることは、武士の子も百姓も同じだ。

 戦闘が終わり、助けたはずの弁内侍に余計なことをと拒まれる正行。武士など敵も味方も皆同じだと言う。弁内侍の頑なな心は何故か。身内の仇だからか。南朝が公家を頂点として、武家は賤しいものと扱っているような力の関係が見えるように思われる。それにしてもいささか頑なすぎないか。そのわけも数場先でわかるわけだが。
「武家というだけで味方すらいとわれますか」
 正行が、「武家でも公家でもない男が助けましたぞと、ジンベエの行いを例にあげて考えを改めさせる。損も得もなく、道を修めたわけでもなく、ただ目の前で酷い目に遭いそうな人を助けるジンベエの真っ直ぐさが、賢しい公家や武家の立場から見ると、純で眩しい。


 本陣のシーン。時はしばし流れていて、戦に勝利している。正時は大きな猪を焼いていて、弁内侍は大根をあぶない手つきで一刀両断にしている。
 これもクスリとする息抜きポイント。
 臭い汁を捨てておりますというのも、調理を碌に習ったことのないお姫様らしくて良い。しかし不慣れながらもちゃんと働こうとする弁内侍が、少し「お姫様」にしては強い。仇を殺しに行こうという考えが、浅はかに見えていたが、案外コレはやればできちゃったやつじゃないかも?と、彼女への見かたを改める。
 野戦料理に熱をあげる正時に、婿選びを間違ったと、大田が言うが、現代の観客の視点からすれば料理が上手で思いやりがあって、妻を愛し抜いてくれる彼って超絶最高な旦那である。
 心の底から「間違ってないよ、最高だよ」と言いたくなる。
コレが前回公演で思いやりも、女性へのリスペクトのかけらもない男だったかと思うと、演出家が鳳月に見出す可能性の幅の広さに驚く限り。ちょっと拗らせな美女もできますし! イェスマンなパパもできますし。
 ところで猪っていうか、豚の丸焼きは9時間かかるのですってね。朝も早くから刀じゃなくて弓矢を持って、多分うるさいからって具足もつけず軽装で狩に出て、猪取ってきて下拵えしていたということですか。大田パパわかるよその不安も。

敵兵を川から引き上げて手当てをする場面
幕開きで雪が降っていたことを考えると、きっとこの戦も氷点下みたいな寒さの中だ。その冷気がこちらまで漂ってくるような雰囲気。
「あとは流されちまった」
たくさん、死んだんだなとわかるセリフ。物理も精神的にも、前の場面から装置を開いて転換する僅かな間に空気を変えてしまう。舞台の、演者のすごいところだ。
 あくまで南朝の公家である弁内侍はその敵兵救助を受け入れられない。そりゃあそうだ。北朝の師直に、身を差し出してでも殺してやろうと思う強い女だもの。でもそれを宥めるのではなく有言実行させる正行の、思考の展開もすごく無いですか。そしてその振り。刀を持たせて鞘を抜く、その一連が目にも止まらぬ滑らかさ。客も弁内侍も気づいた時にはもう手に刀を握って、目の前の人間を殺そうとしている。そして彼女が動けぬとなるとさっと刀を取り上げて振り上げる。
 意を得た弟と部下が、今まで手当てしていた男を、すぐに切りやすく抑える。上司が助けるといえば助け、殺すと言えば翻意に文句を唱えもせず、さっと殺す。上意下達が徹底された、軍としての練度の高さが、強さが、見える。あるいは、考えあってのこととの信頼の厚さか、その両方か。
 そして止めに入るジンベエ。百姓の立場からかつ、戦で偶然敵にならなかった立場から、真剣に止める。武士が相手でも構わず縋り付き、蹴り飛ばされながらも語るその言葉が、怯え凍えた弁内侍の心を溶かし、雫が垂れるように絞り出した「切れとは言っていない」
 先ほどまで仇の高師直を殺すと言っていたし、それができるだけの激情も持ち合わせていたけれど、目の前の雑兵一人にまでその思いを及ばせることは、想像の外だったか。農民を駆り出して戦に立たせる現実を、知らなかったか。「素直ちゃうなあ」という正儀の言葉や、飯を食わせる正時が場の空気を解いて行く。食べ物を受け取り、段々と生気を取り戻し、帰って行く北朝の兵士たち。

 つくづく上田先生の作るお芝居は緩急がうまいと思う。演説のセオリーに、5分に1度笑わせるというものがあるらしいが、上田先生は必ず序盤は息を抜けるポイントを多く設置する。そして気付かぬうちに物語に没頭させ、終盤は笑う間も無く没頭した観客の心を振り回し叩きつけ刺して切り刻んで搾り上げるのだ。するとやるせない涙と爽やかさが残る。

 そしてここで大事な一曲、楠木音頭が入る。地元の村人たちから大変に支持されて、助けられている演出。敵軍も助けるくらいだから当然のことだろうと微笑ましくこの楠木音頭を聞く私たち客。歌い出した様が酒でも入ったかのようで。実際戦の後なんて昂っているから酔っているのと同じだ。酒もあったかもしれない。「えんやらえんやら」と、繰り返す掛け声なんか、聴いている我々も歌いたくなる明るさ。
この楠木音頭がとても単純な旋律で、伴奏がないのは、村人たちが歌う簡単な歌だからという設定もあるのだろう。しかしそれ以上の役割をあとで持たせるのが、上田先生流だ。一度目を知っているからもう、苦しさが溢れ出してくる。
同じ歌を子供の声が歌い継いで、庭先で訓練に励む楠木の子どもたちに場面が移る。正行たちもかつてはこんなふうに訓練に励んでいたのだろうか、なんて想像させ、そして、結末の先にはこの子どもたちが育って、楠木を支えていくのだろうかと、物語の未来の時間を広げるワンシーン。
将来のために、楠木のために子どもたちをしごく久子と、おまんじゅうを用意してくれる百合の優しさ。こんな光景に守られて三兄弟も育ってきたかとやわらかに思う。そこへ、帰ってくる正時。
 この夫にしてこの妻あり。3秒で理解する、お似合いだと。もしものことがあったら後を追いますと、心配する彼女のいじらしさを、愛の深さを、あとで苦しく思い知るとは知るよしもなく。それでも戦乱の世で正時は先に死ぬのだろうと思いながら、二人の仲睦まじい姿を見ている。正時が先に死んで、それでも彼に生きろと言われて後を追えないなんてところが、王道展開だと思っていました。そうはならないと知った2度目は、ここもまた苦しくて。
 先に死なないでくださいと、言っていたのに。先に死ななかったけど! でもそれってそんなのってないじゃない!

帰り道の休憩。
案外やるじゃんと見直される弁内侍。劇中の登場人物がそう言ってくれることで、客も弁内侍結構やるじゃんと、好感度を上げる。
正儀の「水、どう」からの流れも可愛いポイント。明らかに正行と正儀で対応が違うのも面白いが、そんな中でもちゃんと弁内侍の心の暗いところを描き出す。
 兄の死体の下から、嬲り殺しにされる母を見ていたその闇の深さは如何程か。今まで少しずつ武士である正行に心を向けるようになっていたからこそ、このパーツが嵌まって弁内侍というキャラクターに奥行きができる。正行と同じように僕も、彼女の幸せを願うようになる。
 この淡々とした、劇的でもなく悲観的でもない口調で語る彼女の言葉が、また闇が深い。過去のことなのだけど。終わったことなのだけど、彼女の中ではその傷口は血で固まってしまって動かないような、凝った残り方をしているように聞こえる目線の定まり方や言葉の硬さ。それを、正行は未来へ向けようとする。

弟や部下たちの、気を利かせた人払いとか、「二人きりの時に言った方がええよ」とか。正儀は自由に生きてきていながら、それでも楠木兄弟。よく周りが見えてるし、気も利かせられる。それを兄の役割だと思って、やっていないだけかもしれない。

 兄弟間の役割分担がきれいにはまって、物語としても面白いし、日本物という、髪型で個体識別のしにくい上に、宝塚だから衣装も変わって、シルエットでも混ざりがちな主人公周りの3人を、セリフひとつでわかるようにキャラ付けしている。上田先生のことだから計算づくで。
 そして、「ムリ」「ほな、いきまひょか」とか。我を強く持って大将として生きてきたかっこいい正行くんの柔らかなところも見えてくる場面。
 理想的な大将であるために、「カッコつけてるだけや」と言われてもいたが、言葉を選び、父の教えに従って民草を守る彼。そのことに一生懸命生きてきたから、それ以外のたとえば女性の扱いやらなにやらに全く時間を割いてこなかったことがわかる、不器用な青春の一景。
ひどくほほえましい。そして、先を知っているからこそ、改めて切ない。


場面変わって銀鏡の高兄弟。
 尊氏の後ろに控える花一揆は、可愛い女か男児かと迷うほどの美人揃い。一人一人のお衣装も、安い布じゃないから模様が単調でなくて美しい。そしてその目線は鋭いものを秘めていて、彼らもまた湯殿の女房と同じように、生きるために知恵を働かせて、身を対価にしているのだ。
 知ってるよコレ、秀道ってやつでしょうってなるから、知識って怖いねえ。
 時代背景と知識だけで、描かれもしないR18を察する大人です。
女の脂は腹の毒ぞ。
 そのセリフに、「あ、こいつら同類だ」って感じる。けれども高師直の立居振る舞いで、同類であっても明確な上下関係が見えてくる。尊氏のいやらしさの向こう側に、圧倒的な強さが見える。
 そして、その流れから、物語の結末も。

 戦乱の歴史を扱っている以上、主人公を待ち受ける結末は「死」なんだけど、NOBUNAGA みたいな抜け道は無いなって。わかってしまう。まあ、上田先生の作品で、そんな解釈の揺れを許すわけがないって、知ってはいたけれど。トップコンビ退団公演ということは、トップコンビの終わりをみんなで見守るということなのだ。そしてトップ男役珠城りょうの終焉を。(芝居だから、「終演」の方がいいかしら。)
その人ごとに終わり方は違うし、演出家がその人に似合うと見立てる終わり方も違う。


戦勝報告。
 盛大なブリッジの音楽が、宮中の公家の重々しさを感じさせる。腰の重さか、態度の大きさか。その中大きな存在感を出しつつも頼りないのが後村上天皇。でもいつのまに彼はこんなに大きな役をできるようになったのかと驚いた。パワーあふれる若者、じゃなくて。
 今や若手じゃないけど、プレシャススターやA-ENでありあさを認識して、若手の中でもちゃんと私の目に見えていたお二人の、今の姿に毎公演驚く。(あちらも2番手羽をついに背負いましたよ。時の流れの早いことに驚きです。)
 でもコレ上田先生の采配あってのことでもあるよな、とも。僕も未だにイメージの中では暁さんてパブロだし、タイタンを演じる若者だし、とりあえず舞台の真ん中でくるくる回ってそうなイメージのままだし。新しい一面を的確に引き出す先生のお陰で、暁さんの穏やかながら時折覗く鋭い感情を、新鮮に味わうことができます。
 余談だけどショーでかなりアダルティに歌っていらっしゃって、昔から声はいいし素直な発声だしと思っていたけど、こんなに声で表情を作れるようになったのかと驚きました。ええ。いつのまにか立派なスターさんにお育ちあそばされて。

本編の話に戻ろう。戦勝報告だ。
 歓迎する素振りのない。フランス貴族を彷彿させる選民意識の凝り固まった宮中であるように見える。その中において一人、後村上天皇だけが、正しく正行を見ているようにも感じられる。そして、秘されたものをそっと晒すような、後村上天皇の本音。
「もう誰も失いとうない。」
 公家の誰もが打倒北朝に燃え、武家の楠木たちとの立場の違いがはっきりと見える構図の中、公家の中でもなく、もちろん武家でもない天皇の孤独がそこに現れる。
 しかしそこに現れる死者の怨念。赤い、血の色をした死の概念に翻弄され、戦況の読めぬ愚かな主人の理想に命を捧げた者たちを描き出す。
 後醍醐天皇が、かけらも自分に命を捧げられることを疑問に思っていない様子が恐ろしい。恐ろしいけど圧倒的に強くて、命を捧げることを当然と思ってしまう自分も恐ろしい。鼓の音にびくりと身を震わせながら、物語に深く引きずり込まれ、観客たる僕は、真ん中で震える正行と後村上天皇と同じように怨霊に翻弄される次々と死んでいく忠臣たちと同じ立場に引き込まれる心持ちだ。そして「玉骨はたとい南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まん」と、死して尚諦めないまさに怨念。
 さっきまで愚かに見えていた公家の、壇上にいた人たちが皆、後醍醐天皇の操る血濡れた糸に絡まれ捕われているように見えて薄気味悪くなる。

 こんな流れでいうのもナンだかなあと思うけど、この場面の後村上天皇、絶妙に暁さんの持つバブみというか、幼さが、観客の庇護欲を掻き立てると思う。守ってやらねば。願いを叶えてやらねばと。配役うまいなあ。


 実は2度目の観劇のとき、この場面で中断が入った。というのも、火災報知器の誤作動があったのだ。
 警報が鳴っていても動じず粛々と芝居を進める演者たち。そして、はけてくださいと言われれば、動揺もせずさっと立ち上がって静かに速やかにはけていく姿が、プロそのものでひどく安心させられた。そして暗転幕を上げて次景を始めるのと、緞帳を上げて始めるのとでは重々しさが違うなあなんて、関係のないことを考えたりもして。やっぱり緞帳は物語を始めますよって言われている気がする。ブリッジの音も物凄く物語に引き込む力を持っていて、劇中だと流れてしまう、舞台転換の音なのだけど、緞帳とセットになると、物語を始める音として耳に飛び込んでくる。4度の和音の分厚い、笙で鳴らした音をオケに置き換えたような。
 あともう一点、公演中断のときに、指揮者の前の回転灯が赤くくるくるして、明確に中断が見えた。指揮者を止めると芝居も止まるよなあそうだよなあと、何と無く思った。あの場面音楽はあまり入らないシーンだし、実際指示をだすのはステマネさんのお仕事だけど。(舞台進行とかいうのでしたっけ)2階席から見える一番大きな変化って指揮台だから。もし立ち見の1番とかで見ていたら、スポットライトを操るスタッフのざわざわも聞こえたかしら。時にはうるさくも感じるけど、たくさんの人が関わって作り上げる舞台ということがわかって、東京の立ち見のセンターで立ち見をするのが、好きです。


さて、物語は後半に入っていく。
 戦う意味に迷い始める楠木兄弟。呪いに縛られているわけじゃないけど、じゃあなんのために戦っているのだろう?
 見ている僕にはわからない。ただ、このままわからないままは死なないだろう。きっと何か、正行なりの答えを見つけて、死地へ赴くのだろうという期待と、高揚と、切なさとに目の奥が痛む。
 回想の正成が、幼い三兄弟に、なんのために死ぬのかわからぬうちは、生きろと教える。死地に赴く父を見上げる子らの心は、もしかしたらいま正行を見つめる客席も僕らと重なっているかもしれない。単純に死んで欲しくない(退団してほしくない)僕らと。

 如意輪寺の境内で、再開する後村上天皇と正行。先ほどと少し距離感が違う。なるほど二人は幼友達でもあったのかと、先ほどそれでもただの天皇と武家にしては心が近かった理由を窺い知る。
 後村上天皇の「許しておくれ」を、正行がゆるしているかはわからない。ただ諦めて飲み込んでいるだけかもしれない。でも飲み込めるだけの後村上天皇への思いもあるだろう。後村上天皇も正行をただの駒ではなく一人の人間として、見ているのがとても尊い。後村上天皇は優しすぎる。優しすぎて、苦しそうに見える。
 出ておいでと声をかけられて呼び出される弁内侍。この二人がくっつくならちょうどいいじゃないかと思うものの、そう簡単み落ち着かないのもよくわかる話で、目の前に迫る死に、死ぬ意味を探している正行には、到底受け取流ことができない。弁内侍も無理に押しかけようともしないし、周りも無理に押し付けない。
 限りを知りてと、歌にあったけど。たしかにみんな限りを知っていて、その中でせめてどう生きるべきか足掻いている。見ている僕には正解がわからず、戦いなんてやめてしまえと思いながらやめ方もわからず、でもその戦いの必然性だけは薄ら理解して苦しさを増している。

 弁内侍のソロがここに入るのもまた切ない。弁内侍は正行に心を溶かされて、心の冬を終わらせ、春に向かい始めている。
 でも正行は応えられない。
 歌の中で、なぜ花は散ると知って咲くのかと語るこの花とは、何のことだろう。恋心か、人の命そのものか、あるいは南朝か。場面によって、人によって捉えが変わる言葉だけど、これがまだ花の咲かない吉野で歌われていることが切ない。

 楠木の屋敷に訪れる思わぬ来客と、道を見定める場面。
 ここから先は苦しさしかない。ただただ自分に自信を持って敵の軍の大将に会いにくる尊氏。あるいは敵兵力を削ぎながら、自分の兵力を増そうというしたたかさか。
 大田は寝返ったぞ。と、正時が認める。翻弄される内心をそのまま吐露し、揺れる心を秘めて見せようとしない正行の思いを客席に察させる正儀。
寝返ってほしくない。でも頑なに敷かれたレールにしがみついて死んでほしくもない観客たる僕。
 幸せになってほしい。
 そんな結末ありえない。
 兄弟はいつも一緒にいてほしい
 でも百合の父親は。

 正行は、何を見定めるのか。

 息を飲んで見守るこの場面が、精神的なクライマックスだと、僕は思う。
 百合を離縁して敵方に預ける。本当は自分の立場にとらわれず、戦の後も生きていてほしいからだろう。自分たちが死ぬことを知っているから、寡婦になってほしくないから。敵軍が村を蹂躙する時に、楠木の関係者としてなぶられることを避けたいから。
 愛が大きすぎて、正時は百合を突き放す。足蹴にする様が、正時の苦しみを表しているようで心が痛い。
 心得て引き取る北朝側。
 正行が何かを見いだす。ただ最後まで南朝の側として。ただし南朝のためでなく、大きな流れの一部として、戦いに赴くと。

 冷静な僕は、たとえ彼らが寝返って北朝に行ってもそれもまた歴史の流れじゃないかと考える。でもそうなっていたら今の世の中はきっとどこか違っていたかもしれない。時空のパラドクスで今と違う今が出来上がっていたかもしれない。大差ないかもしれない。
 でもそれは歴史を歴史として学んだ僕らだから思うことかもしれない。

 そしてこの大きな流れの一部というのは、107年続いた宝塚の歴史そのものの流れの一部としての、彼女の立場も重ねてだろうかなどと考えると、知らず涙があふれる。
 苦労のないトップスターなんていないのは百も承知だけど、彼女もまたいろいろなことを言われ、早すぎる抜擢だの、実力不足だの。学年が上の2番手との関係も、本人たちの意と異なることをたくさん言われ、勝手に空想され消費されて、そして苦労を重ねてきた。(これについてはその二番手だった美弥さんが、言及していらっしゃった。私たちの関係は私たちしかわからないと)
 宝塚の歴史という大きな流れの中で、月組の24人目のトップスターとして、足掻いて輝きを見せてくれてきた。
 今の月組を引っ張れるのは自分だけだと思い定めてやってきたのだろう。
 それが、南朝を見捨てず守らねばと考えて動き出す正行の姿に重なった。

 弟たちに助けを請いもせず、ただその姿勢で二人にも道を定めさせた彼女の芝居が、最後の輝きのように見えて尊くて、苦しい。
 昔から背中の広い役者だと思っていたけど。こうやって精神的にも背中で引っ張る役で、最後を飾るってねえ。好きです。

 尊氏の去り際の台詞「ますます惜しゅうなったわい」は、舞台を見つめる僕らの心そのものではないだろうか。

 そのまま戦いに行くかと思いきやここで昂った心を少し落ち着ける、公家のシーン。
 戦の景色を知らず、それでもここに生きている公家たち。これにもう腹は立たない。冒頭でも正行が言っていた。「戦はそれがしがいたします」と。
 この景色を守るために正行は立つと決めたのだもの。この景色が平穏であるほど、正行は喜ぶのだろう。
 後村上が猿楽たちに一献用意していることも、何だか微笑ましい。
 いい人なのだ。本当は、歌でも詠んで暮らさせてやりたいくらい。

 阿野簾子の優しい声。後醍醐天皇の怨念に支配された宮中を離れると皆吉野に生きる人なのだ。自分の若かりし頃と弁内侍の姿を重ね、心安らいで春を、花の咲く時をむかえた彼女を優しく見守る母のような姿。

 そして訪れる正行。お別れを言いにと、律儀なことに。
 死ににゆく身を弁内侍が想ってくれていることを知っていて、正行自身憎からず思っているくせに、あなたのために与えられる時がないと静かに断る正行の、今この時だけをくださいという弁内侍の健気なこと。
 そして前に断られた時には何も言わなかった彼女が、最後の邂逅であなたの今をくださいと言えた成長。

 花が舞う幸せな二人のほんの刹那な今を、塗り潰すように炎の中に燃やし尽くそうとするかのように、振り落としの赤い幕が遮り、場面は戦乱の四條畷へ。
 死に急ぐ身を急き立てるような激しい笛と太鼓の音。
 毎秒ごとに命が失われて行く、次は自分か、あるいはその次かという、恐怖の中の美しさ。
 そして、観客たちへの慈悲の心はなく、これがただの歴史語りであったことを思い出させる老年の二人の語り。
 この先はあなたにはお辛いかもしれないというのは、つまり死に様を描写しますよという予告だ。
 聞かないで済むなら聞きたくない。死んだことを認めたくない。けれども知らないままで終わりたくもない。最期まで見届けなくてはと、見ている僕まで姿勢を正す。
 オペラグラスとハンカチを握り直して、一つ大きく息をついて、ジェットコースターのてっぺんを通り過ぎる時のように、覚悟を決めて(あるいは決められぬまま引きずり込まれるように)戦の中に落下して行く僕ら観客。
 正時と大田の親子。
 複雑な思いを捨てきれないのは大田の方に見える。
 百合は息災かというセリフは、百合への愛か、相手に守るべきものを思い出させる激励か。効果は思わぬ悪さで、百合は自害したという。
 大田の親子の複雑な思いは寝返りへの後悔か。一緒に北朝に来てくれなかった正時へのやるせなさか。
 正時は感情の発露の鬨の声を上げながら、頭領の一族らしい強さで切りすて、「とどめは必要か」「頼む」と最後に、親戚であった相手と言葉を交わす。
 敵方の娘に用はないという三行半は、でも真意が伝わっていたらしい。
 結局この夫婦は最後まで、自分より相手のことを愛していたのだ。だからお互い、自分よりも相手が長く生きるように、考えを巡らせて縁を断ち、命を断ち。
 正時はすぐにも後を追いたかっただろうか。それとも、百合に押し付けられた命を、正しく使わねばと思っただろうか。
 鬼気迫る彼の姿は、思えば今作初めて見る姿だ。
 安全第一のはずだったのに、生きて帰る場所もない。生きて逢いたい人もないとでも言うかのような、傷つくことを省みない捨て身の姿。
 死ねばあの世で再会できると安易に思ってしまうのが宝塚を見慣れた僕の、少し誤った認識なのは百も承知だけど、そういう王道の夫婦の姿をここに設定してくれた上田先生も、やっぱり宝塚の文法をよく理解して利用している。ずるいなあ。

 そしていよいよ現れた正行。歌舞伎ならば掛け声がかかるだろう美しい魅せ方。舞台の袖から舞い上がる赤い紙吹雪は、止み時を知らず、いつまでも舞い続けてそれが高揚を掻き立てる。
 泣きたい。でも余さず見ていたい。
 死の際にこの命がどんな風に燃え上がるのかを、瞬きせずに目に焼き付けたいと思わせる。
 最初に命を失うのは正時。「三途の川で妻が待つ」という言葉は、残されたものへの慰めかしら。あるいは本心からの安堵かしら。
 多分両方。
 前景で幼少の思い出。もしも吉野が落ちたら。民草にもらった時と力の使い道。
 弟に生き延びよと命じて追払い、迷いなく一心に、髪を振り乱して、亡き弟の刀を手に取って鬼神の如く舞う正行。
 降りしきりる花吹雪は、花の形をしていて、まさに桜の嵐。
楠木のあり方を歌う楠木音頭を口ずさみながら、命を使う姿が、いつ尽きるかと儚く、頼りなく、しかし輝いて見える。
村人たちが楠木の一族のことを讃えて歌う楠木音頭。それも楠一族としてのあり方を見せるような、縛るような。でも、民たちの間からきっと自然に生まれたであろう歌が、最後の最後まで正行を奮い立たせていたのかと、すでにこちとら滂沱の涙が止まらない。
 広い舞台を、たった一人のトップスターのためだけに使う、ショーで言うなら大階段の真ん中で一人で立つような張り詰めた空気を感じながら、その役の生き様と、職人気質なタカラジェンヌ珠城りょうの生き様が重なる長い長い一瞬。
 フイとその世界を矢音が止めて。
 あぁ、ああ。と息を詰まらせる僕の目の前で、二振りの刀が舞台の床を打つ音がして、どさりと正行が倒れる。
 物語に飲み込まれていながら、役者としても珠城りょうを重ねて、絞られるように胸が痛む。
 耳に帰ってくる物音。駆け込むジンベエと正儀と、援軍の一行。
 民草を大切にする楠木のやり方は、間違っていないぞと、あの時助けた奴らが助けに来たと言うことに胸を熱くする一方で、今すでに死の淵にいる正行には遅すぎたと、僕らが思う中、正行だけは未来を見据えていて、「助かった」と本当に安堵したように言う。
 何故か。
 「これでおまえたちが落ち延びて、帝を逃がせる」という言葉に、どこまでも頭領の大きさを感じて、改めて惚れ直す。
 トップスター珠城りょうは、きっとそうやって自らの身を顧みず周りを押し上げてきたのだろうかと、情緒が忙しく劇中と現実を行き来する。

「お前がやれ」と強く後を託された正儀が言葉に詰まる。今までならあっけらかんとみんなの本音を代弁してきた正儀が、ここで言葉に詰まる。この場を持って、楠木も頭領が自分に変わるのだと思うからこそ、思ったことを言えない。そこで誰もが。観客の僕らもが思っている言葉を言ってくれるのがジンベエ。
「置いていけますかいな」
そうだそうだ! 置いて行くなんてできない!

 いや、置いて行って、帝を助けなければならないと言うのは理性ではわかっている。わかっているからジンベエみたいには言えなかったのだけど、でも置いていきたくない。
 まさに今まで大きな楠木として支えてくれた彼を置いて、戦場に背を向けて逃げ出すなんて。
 この精神が、死を無駄にしてはならないという精神が今までたくさんの人を殺してきたことはよくわかっている。
 現実に繋げるなら五輪だってそうだった。戦中の日本の精神だってそうだった。退却の指示を出すのは、進軍の命令を下すよりずっと難しい。
そ れでも、賢い楠木の郎党は、主人を見捨ててでも逃げ延びて体制を立て直し、守るべきものを守らなくちゃいけないってわかっているし、1秒でも早くその場を離れて動かねば、残された時は長くないって知ってるし、ちゃんと見捨てて逃げるだけの冷静さも持っている。
 でもやっぱり、わかっちゃいても命を見捨てていこうだなんて言えるわけがないじゃないか。

 腕に縋り付いて泣くのは、頭領となってしまった正儀にはもう許されないことで、だから掻き抱いて泣いてくれるジンベエの存在が、一番最初とは比べ物にならないくらい大きくて、頼れて、愛おしい。
 最期に彼に触れるのが元百姓で、「武士にしてもらおかな」なんて軽い調子で一党に加わった男で、でも血が怖くて戦場に行けなかったのに、こんな最後の戦いにまで付き従ってくれるほど正行の人柄に惚れ込んだジンベエで。
 親父さんにはお世話になったと言って助けてくれる村人ではなく、正行の行動そのものに惚れ込んだ民草で。
 悲しくてやりきれなくて、尊くて仕方がない。
 それを、追い払う正行の言葉もまた温かい、
 せめて最期くらい、好いた人のために。
 そんなことを言われたら、置いて行くしかないじゃないか。
 面と向かっては一度だって好きと言わなかった。認めもしなかった。
 気にしている素振りは見せていても、あくまで弁内侍の求めに応えるだけで、自分からは求めなかった彼が、落魄の間際そっと彼女に魂を飛ばす。
 その世界にはもう誰も、立ち入れない。兄弟だってジンベエだって、ファンでさえも。
 涙を散らすように楠木音頭を歌いながらその場を去って行く一向。
 誰かが言っていたけど、この時正儀の言葉が河内弁じゃなくなっているのは、楠木の頭領を引き受けたからだと言うのも全くその通りだと思えて苦しい。
 振り乱したか髪の隙間から覗く正行の顔は幸せそうだったか。
 横になるのではなく、蹲って死ぬのも美しい。
 いつ息を引き取ったか誰にもわからない。でも確かに、彼は死んだのだと。歴史の表舞台に立つものは、今この時を持って、正行から正儀たちに変わると、回る盆に乗って闇の向こうに消えて行く正行と、歌って行軍を始める一行とを見て理解するのだ。

 そして、正儀の語る物語が終わる。
 弁内侍のために語られた、弟の見た正行の姿。
 きっと当時の弁内侍には見えなかった、頭領としての立場や父親の影、南北朝のしがらみの中で精一杯生きて、選んで命を使った姿。
 大事な人を失う経験をさせたくないと言った正行の死に、弁内侍は心を痛めつつも気丈に振る舞い、落ち延びて生きたのだろうし、あえてその死の際のことを聞きもしなかったのだろう。
 正儀も一度は気になった、そして兄に思いを寄せて心を痛めた彼女に、必要以上に声をかけることもできず。いや、できてもせずに、頭領としてするべきことを必死考えて為してきたのだろうし。
 そしてそのそばには、初めに受けた正行からの命を守り続けて、お姫さんを守るジンベエの姿。
 お仕えする姿ももう、染み付いたように、息をするように自然に靴を整え、乗り物の支度が整っていることを告げる。
「老けたな」
「長く生きました、私たち」
 このたった一言のやり取りが、あの頃よりずっと信頼深く、立場の違いも染み付いて。時の流れを思い知る。
きっと一族の頭領として思うように言えなくなった正儀の心の声を、ジンベエは何度も言葉にしてきたのだろう。それもいつしか必要なくなり、弁内侍の出家した後は会うこともめっきりなくなり。
 ただここに、同じ景色を見たものとして記憶を共有するほんの一瞬が、深く深く垣間見える。

 弁内侍が桜を見上げる。
 今度は正儀の見た景色ではなく、弁内侍が見た、正行の最後の姿が思い出されて、時は出陣式に戻る。
 その華やかさは、今まで正儀の見ていた景色とは違って驚くほどに鮮やかに彩りに満ちている。
 きっとそれは、彼女が恋の花を心に咲かせ、見るもの全てが輝いて見えた一瞬だからだろう。
 今年の春は桜が綺麗だと、正行に語ったそのまま、恋に目が開かれた弁内侍には、正行の姿がこう見えていたのだろう。
 吉野を故郷と思う日が来ることを詠む後村上天皇の一句。
 それはきっと宝塚を旅立つ彼女たちスターが、この舞台を懐かしく思い返す日が来るであろうことに似て。
「お別れを、皆さま」
 これはタカラジェンヌとして舞台と組子と観客と、そして宝塚そのものへの別れに重なって。
 明日には一体どんな思いで言うだろう。
 私たちはどんな思いでそれを見送るのだろう。
 想像せずにいられない、眩しく輝いているからこそ切ない最後のセリフ。そしてその背に生粋の月組育ち、暁千星が、声をかける。
「戻れよ」と。
 後村上としては一縷の望みを託して。せめて生にしがみつき、一刻でも命長らえる微かなきっかけにでもなればと。
 芸名の彼女としては。
 きっとそんなこと芝居の中にあっては考えやしないのだろうけれど、ファンは勝手にそこに何かを見いだす。
 決して戻らない退団という出来事のその日にあって。

 楠木正行は、自らの足で歩いて舞台を後にする。銀橋の中央から花道の橋に消えるまで、決して拍手が鳴り止まない。大きな時代に流れに中にあって、(あるいは宝塚107年の歴史にあって)自ら道を定め、選び取り、その足で歩いてきた彼は(彼女は)舞台の床を踏み締めて、自らの足で去るのだ。

 色々な人が色なことを既に書いている。
 美しい景色を絵に残す人もいるし、文字に残す人もいる。
 僕は絵はろくに書けないから、いつもはTwitterに感想を垂れ流す。けれども今作品はそれじゃあ惜しい気がした。
 一つにまとめて置いておきたいと、思った。

 悲しいことに顔のわからない人間なので、役者の名前と役はわかっても、顔で見分けがつかない。声でわかる人はわかるけど、ごく一部だ。
 ルサンクで読むまでは、セリフの少ない(無い)人なんて見分けもつかない。
 テレビドラマや映画を見るような心持ちで、見て取ったことを、このように空想と想像を交えて書き綴ってみることにした、
 役者を見ている人からすれば、真ん中ばかりで偏っていて面白みがないかもしれないけれど、現在の私の思うところを、そのまま思い出して並べた。
 冗長な言葉の無駄遣いで申し訳ないけれど、千秋楽を見るための。あるいは映像を見返すときの、考察のネタにでもなれば幸いである。

 今日も、予報によれば明日も雨は止まない。きっと涙雨だ。
 でもせめて、明日、退団者を見送る劇場には晴れ間がさすことを願って止まない。

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