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トロッコ問答

夏の夜、寺の本堂で坊主たちが話していた。蝋燭の灯りだけが照らしている。
「トロッコが止まらなくなった。線路には5人の作業員がいる。分岐器のスイッチが手元にあり、分岐を変えれば5人は助かるが、分岐先にいる1人が死ぬ。さてどうする」
少し沈黙があったあと「5人を助けるために1人を殺してもよいか、という問題だな」と切れ者で有名の俊風が腕を組んで言った。
「おう、そうだ」と雲斎が答えた。この話を始めたのも彼で、この間住職と共に檀家に行った際に聞いてきたそうだ。周りには彼らより若い坊主たちが三人ほど集まり、皆で板張りの床に敷いた座布団に座っている。
「巷ではこの問題がトロッコ問題と呼ばれ、やたらと流行っているらしい」と雲斎は続けた。
二十歳にもならない坊主たちはまだ仏の道も理解しきれず、寺での退屈な暮らしに常に飽いていたから新しい話は常に歓迎された。
俊風が「面白い」というと皆が話し始めた。本尊に置かれた仏像は何も言わず見守っていた。
まだ十二になったばかりの一風は、切り替えるべきだと主張した。
「単なる数字の問題ですよ。5人助かるなら切り替えるべきです」
雲斎は「お前は世間を知らん」と切り捨てた。「分岐を切り替えればな、逮捕されるかもしれん。逮捕は辛いぞ、寝るのも食うのも辛い。しかし、分岐に触らなければ事故だ。罪にはならん。警察に話を聞かれて終わりだろう」
雲斎は十八で、寺に入ったのはかなり遅く十五のときだったから、ここで生まれ育ったものも多い他の坊主たちよりも世間を知っていてそれをひけらかすような口を聞くところがあった。
一風が反論しようとすると、俊風がそれを制して言った。
「触らなければ罪にならない? 果たしてそうだろうか? 確かに世間法ではそうかもしれん。事故だからな。しかし仏法では、人の死を見過ごすことは罪にはならんか?」
俊風と雲斎は同い年で、様々なことについて意見を戦わせることが多かった。と言っても雲斎は仏法の知識では生まれたときから寺にいる俊風には劣ったから、仏法の話になれば何も言えない。
一風は、憧れの俊風が自分の代わりに反論してくれたことが嬉しくて何度も頷いた。それを見た浮雲が、今度は雲斎の代わりに反論した。
「5人が死ぬのは事故です。しかし、分岐を切り替えて1人を殺すのは、これは殺人です。事故を見過ごすのと殺人を犯すのでは、仏法に則っても殺人の罪のほうが重いのでは?」
「おう、そうだそうだ」と雲斎も声を上げた。
浮雲は俊風に次ぐ頭脳の持ち主と目されており、まだ十にもならないのによく口が回った。この間雲斎にこっそり饅頭をもらった礼として代わりに反論したのだった。
俊風はにやりとして「それも正しい、そしてそれが面白いところだ」と言った。
「この問題はな、答えがない。ある視点からはこう考えられるが、別の視点からはまた別の考えがある。流水、お前はどう思う?」
ずっと黙っていた流水は、突然の質問に驚いた顔をした。
「流水に聞いても無駄ですよ」と一風は言った。
流水は今年で十六になるが、皆から馬鹿にされていて、年下の坊主たちからも呼び捨てにされていた。
「流水は何もわからないんですよ、この間も昼と夜はどちらが暗いかと悩んでました」と浮雲は笑った。
「水と火と、冷たいのはどちらかと悩んでるのも見ました」と一風は言った。
「流水お前はどうしょうもないな」と雲斎は大きな声を上げて笑った。
「まあそう言うな」と俊風は困った顔で言った。
「それで、流水、お前はどう思う?」
流水は俯いて座布団の端を摘んで黙っていたが、やがて座布団を掴むと、それを頭に被せながら立ち上がり、危ない危ない! と言いながら走って出ていった。
4人はしばらくあっけにとられていたが、やがて一風と浮雲が笑い出し、さらに大きな声で雲斎が笑った。俊風はため息をついた。
あまりにも大きな声で3人が笑うので、やがて住職が来た。
「どうした、そんなに面白いことでもあったのか」
住職がそう聞くと、俊風が、これこれこうで、流水は終いには頭に座布団を被り、危ない危ない! と言いながら、出ていったのです、と説明した。
それを聞いた住職は「流水、できておる」と言った。
4人は住職が何を言っているのかわからず、ただきょとんとするだけだった。
住職は蝋燭を消し「さぁ、もう寝なさい、何も考えず」と言った。
4人は床に着いた後も住職の言葉の意味を考え続けた。
その言葉の意味がわかったのは数年後、仏の道がやっとわかったときだった。
本尊に置かれた仏像はその間も何も変わらず見守っていた。
蝋燭の炎は消えたままだ。

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