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私景、という名の日常

どうもこんにちは、トモです。久しぶりのnote更新となります。

今月から「yousawscenes」(以下、YSS)なる写真プロジェクトに、選者の1人として参加しています。

「yousawscenes」とは

誰でも参加できるフィーチャープロジェクトで、自分の写真作品にハッシュタグ「#yousawscenes」をつけて、TwitterもしくはInstagramに投稿してもらうというもの。投稿されたものの中から、YSSメンバー8名が日々ピックアップして紹介しています。

そのお題目は「日常」。

……なんて言われると、ちょっと幅広い響きがしますよね。その定義づけは?と首をかしげる人もいるかと思います。

しかし私たちは敢えてそれを決めつけず、それぞれの撮り手が思い描く日常を、写真というカタチで見せて欲しいとしました。そうすることで初めて、この時代の撮り手たちの日常写真が俯瞰できると思ったからです。

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山の端、枯れ木、川のシルエットで構成されたロゴはYSSをかたどっている
MASAさん作)

しかし「テーマは日常」と言われても……と悩まれる方もいるかと思い、敢えて言うならばという意味で、副テーマを設けました。

それは、「あなたが見た景色」。

移ろいゆく日々の中でカメラのフレームに収められた光景であれば、募集テーマの「日常」にもれなく該当するものとしたのです。ちなみにこの副テーマを英語に置き換えたのが、プロジェクト名の「yousawscenes」というわけ。

私がこれまでに選んだのは「家族写真」

YSSを立ち上げたのは Ken Tanahashiさん という写真家の方なのですが、彼の絶大な影響力もあって、初日からガンガン投稿が増えました。

まだローンチから2週間ちょっとしか経っていないんですけれども、Twitterでハッシュタグ「#yousawscenes」を見てもらえれば、それこそ考えられる限りの日常写真がひしめき合っています(インスタなんてもう2500件超え!)。

で、私がこれまでに選んできた写真はこんな感じ。

まずは日常写真の王道として、始めの3つは家族やパートナーを被写体に迎えた家族写真を中心的にピックアップしました。

それにしてもみなさん、本当に写真がうまいんですよね……。

自分たちの影や、子供の手にフォーカスを当てたり。寝起きの息子の頭についた寝グセに着目したり。家族を写すというだけではなく、ユニークな視点が盛り込まれている。

一般的にポートレートというと、一番印象が強いのは顔(特に眼)ですけれども、上に挙げた写真はどれも、顔や眼に頼らないことで鑑賞者の想像を駆り立てることに成功している。それと同時に、子どものプライバシーを守る意味合いとしても絶妙なフレーミングだと言えます。

さらにアッパレだと思ったのは、触覚的な感性が写真に表れていることなんですよね。

触覚的な写真はザワザワする

上に挙げたうちの二番目と三番の写真は、どちらも撮影者の子どもさんを撮られたものだと想像しますが、それらはどれも指や髪の毛といった触覚的な器官に、最もフォーカスが当てられていることにお気づきでしょうか。

これは、私がアーカイブディレクションを務めている写真家の故・深瀬昌久の作品研究を経て辿り着いたひとつの持論なのですが、動物の視覚には「モノを見る」ための働きがあると同時に、「対象に擬似的に触れる」働きもあると思うんです。

みなさんは、誰かと眼が合った瞬間、全身を電撃のようなものが走った経験はありませんか? 見つかりたくない人に見つかった時とか、思わずビクッ!としますよね(笑)。その感覚を紐解くと、視覚を通じて相手に触れる触覚が瞬間的に芽生えたとも言えないでしょうか。

写真というのは視覚で撮るものと思いがちですが、実は視覚を通じた触覚的な作用も充分に有効なメディアだと私は考えています。

そうした高度な試みなんかも確かめられて、日々唸りながら写真の選出を楽しんでいます。

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(上図版)深瀬昌久『遊戯 A Game』(サスケ)1983年
© Masahisa Fukase Archives
深瀬が愛した猫・サスケの写真プリントを切り貼りして制作されたもの。猫があくびをする時、触覚機能としての牙やザラザラした舌はむき出しとなり、ヒゲは大きく広がる。視覚を通じてザワザワさせられるその瞬間を執拗に撮り続けた時期が、彼にはあった。その触覚的な作用をあたかも可視化するかのように、糸やプッシュピンを使ってプリントの上から細工を施した。

極めつけが「景色写真」!

さて、YSSのメンバーというのは、現役で写真を撮られている方々で構成されているんですけど、その中で異質な人がいます

それが他でもない私、トモコスガです(笑)。もちろん写真を撮ることも日常的にしますが、それ以上に写真を考え、語ることを活動の中心にしています。

そんな私がこのプロジェクトを通じて確かめたいのは、写真の撮り手たちが思う日常写真の現在進行系、それがどういったイメージなのかということ。写真を選ぶ行為を経ながら、いま最もリアルな日常写真について考え、言語化していきたい。それが私なりのYSS、裏テーマ!

でね、プロジェクトをローンチしてすぐに気づいたんですよ。応募される写真、想像以上に景色モノが多いぞと

それというのももしかしたら、プロジェクト名を「yousawscenes」=「あなたが見た景色」にしたことが関係しているのかもしれない。ロゴにしたって、バリバリの風景シルエットですし。

そもそもの発起人であるKen Tanahashiさんがまさしく景色を撮る人ですから、彼からの影響もきっと大きいことでしょう。

実際にYSSでピックアップされる写真に関しても、Ken Tanahashiさん、MASAさん、いくら・チャーンさんは、景色やストリートスナップを中心的に選んでいる感じがします(あくまでも私が受け取った印象に過ぎませんが)。

なんにしても私が驚かされたのは、景色が日常写真のひとつとして確立されていることでした。

景色を日常と捉える考え方は、実に日本らしいと言えるし、それこそ日本の写真史に脈々と続く景色写真、いや「私景」が今なお健在なのだと

私景という名の日常

写真家の荒木経惟さんのことは、写真を撮る人なら誰もが知っていると思います。

彼の代表作に、妻・陽子とのハネムーンを題材にした作品『センチメンタルな旅』(私家版, 1971年)がありますけれど、それを刊行した数年後に彼が綴った文章で印象的なものがあるんですよね。その一部をちょっと紹介させてください。

「大晦日、まだ新年でないのに、私は新宿にいた。あの空洞が、私を空虚にしたからであろうか。平岡正明の「風景の最たるものは、廃墟である。」という言葉を思いだしながら、父長太郎の形見であるニコンSP 35ミリレンズを肩でなく首にぶらさげて、紀伊国屋書店の前をぶらぶらしていた。このニコンSPのファインダーのいいかげんさが、私に安堵感をあたえていた。あまりにも正確に現実を切り取ってしまう一眼レフのファインダーによって、現実があまりにも現実に、風景になってしまうことが、イヤになったのであった。空しかったのだ。一眼レフのファインダーは棺桶に見えた。息づいている現実が、死景になってしまうことが、してしまうことがイヤになったのである。ニコンSPに35ミリレンズを付けて、ファインダーを覗いた私は、ホッとした。そこに在る現実が、そのまま息づいていたのである」

荒木経惟『私現実―あるいは風景写真術入門』1975(『私情写真論』収録)
https://amzn.to/3cNBr55(Amazonアフィリエイトリンク)

「カメラは冷たく現実を切りとり、風景にしてしまう。私は風景にしたくないのだが、カメラは風景にしてしまう。私は、街の中にいた。風景の中でなく、現実の中にいた。街の中でカメラを首にかけ、ピントをあわせファインダーを覗き、シャッターをおしていた。私は、たしかに現実の中にいた」
「写真になってしまえば、風景なのだ。現実はカメラの中にしまいこんでおけ。カメラからフィルムをとりだしてはいけない。写真は死んだ風景だけだ。死景なのだ。噫(ああ)、風景との感傷。写真とはやはりセンチメンタルな旅なのであろうか。私は、写真家は、センチメンタルな旅を一生涯続けなければならないのだろうか。私は本棚から名作『センチメンタルな旅』をとりだしてページをめくった。これは風景になっていない。死景ではない。これは風景との感傷ではなく、妻との感傷である。私景なのである」
「私は本棚から『満州昭和十五年』(晶文社)をとりだしてページをめくった。これらはすべて桑原甲子雄の私景であり、情景である。(中略)『写真よさようなら』『来たるべき言葉のために』をめくってみる。これらは風景でも、死景でもない。森山大道の、中平卓馬の、私景であり、情景だ風景は『スター106人』であり、篠山紀信なのだ

自分がいままさに眺めているリアルな景色も、単に撮るだけでは、ゴーストのような死んだ風景になってしまう。しかしカメラと風景のあいだに自分というフィルターを挟むことによって、情景にすることもできるのではないか

そしてそれを「私景」と呼べるのではないか。ほんこれ!

極めつけとしては、篠山さんが時代のスター106人を撮った写真集なんかは 風景」(=死景)の良い例であると痛烈に皮肉ることで、反面教師もハッキリと挙げたあたり、小気味良いほどです。

蛇足ですけど、荒木さんと篠山さんはのちに対談する際、互いの写真のあり方に対して激しい論争を繰り広げたことがよく知られています。それこそまさに「風景」と「私景」のぶつかり合いだったようにも感じられます。

とにかくこの文章、私は日本の風景写真を理解するうえで重要なんじゃないかと思うのですが、今回のYSSプロジェクトを通じて見せてもらっている写真からも、この荒木精神とも言える「私景がとても感じられる

それって、めちゃくちゃスゴいことなんですよ。

なぜなら、かつては篠山さんほどの巨匠ですら真っ向から否定したような表現だったわけですから(正確には、妻の死を作品化するのはどうなるのかというのが篠山さんの反論だったんですけれど、荒木さんにとってはそれも「私景」のうちだったと思われるので、少なくとも当時の前者には、後者の思想そのものが理解できなかったのではないかと考えられます)。

そうした「私景」を、誰もが表現できる時代になったのもスゴいことですしそれが日常という一ジャンルとして認められたことも注目に値します

そのことが証明するのはおそらく、荒木の「私景」は新しい表現だったということでしょう。

それは今に始まる話ではなく、1970年代以降、荒木に共鳴する写真撮りが多く現れ、それこそ現在に至るまで、私景写真が数多く生み出されてきました。

正直なことを言うと、私自身はそうした私景写真があまりにも多すぎる日本の写真表現に少し嫌気がさした時期もあり、現在でもそれとは少し距離をとる立場にいます。

しかし、ことSNSに広がる写真に対しては、ひょっとするとポジティブな視点から受け止めてみても面白いんじゃないかと思い始めたのも、YSSの活動を通してなんですよね。

というわけでユーソーシーンズ(カタカナで書いてみた)、みなさんからの応募をお待ちしております。誰でも気軽に参加できます。カメラじゃなくたって、iPhoneで撮られた写真も対象ですから。どしどし応募してください。

【日常写真プロジェクト「yousawscenes」、始動!】
https://note.com/yousawscenes/n/n471881b576ea

【応募の手順】
1.TwitterもしくはInstagramで「yousawscenes」をフォロー
  Twitter:twitter.com/yousawscenes/
  Instagram:instagram.com/yousawscenes/
2.ハッシュタグ「#yousawscenes」をつけて写真を投稿(組み写真可)

いやー写真ってのは、撮っても考えても楽しいものですね!

ついでに、深瀬さんの本も紹介させてください。

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著・トモコスガ『MASAHISA FUKASE』(赤々舎、2018年)
深瀬昌久の作家人生40年をまとめた1冊。死ぬ気で書きました!
https://amzn.to/3rfvNRN(Amazonアフィリエイトリンク)

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深瀬昌久『SASUKE』(赤々舎、2021年)
深瀬が猫を撮る過程で試みた触覚について跋文を書きました。
サスケの写真サイコーだからみんなにも見てほしい!https://amzn.to/3p8kVCO(Amazonアフィリエイトリンク)


それではー、また!

トモコスガ

最後まで読んで頂きありがとうございました。写真にまつわる話を書いています。楽しんで頂けましたらサポートしていただけると嬉しいです。