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好き嫌いの理屈

私は小さい頃からおでんが嫌いだ。味や食感が嫌いなのではない。「おでん」という概念が腑に落ちないのだ。

ひとつひとつの具材が大きく、主張が強いわりに、同じ鍋の出汁に浸かっているだけで、全てのキャラクターが平然と「おでん」と名乗っている。そのことに納得がいかない。協調性がないようにしか見えない具の集団を、違和感もなく「おでん」と呼ぶ人々のことが、私には不思議でならなかった。

「『おでん』が好き!」と言うとき、彼らはおでんのハンペンもチクワブもダイコンもツミレも、そして時にはトマトも、好きと思っているのだろうか? 自分のイメージの外にあった具材が目の前に突きつけられた時、今までの「おでん好きの自分」はおでんに対して誠実であったと、胸を張って言えるのだろうか?

あれだけ個性的に主張し合っている具材それぞれを「おでん」であると認めることは、一見"個"の肯定のように見える。しかし、「おでんが好き」「おでんの出汁に浸かっていれば、みんなおでん」と言うのは、"個"の肯定どころか全力の否定にも思える。

もう、この時点で私の頭はパニックだ。

しかし、今までこの理屈を説明して、共感を得たことは一度もない。まだまだ、論が甘いのだ。おそらく、自分の"理の路"すら、まだ十分に見えていない。

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