苺 第二章

車はいつしか人気のない道を走った。草原はなだらかに広がり、所々に雲が大きな影を造った。遠くに見えていた山々はいつの間にか視界から消えていた。ゆるかった登り坂が徐々に角度を急にして、向こう側の景色が見え始めた。遠くにあった山は深い森に覆われた稜線を所々に現した。ようやく車が峠を登り切るか、という時だった。対向車線を大きなトラックが通り過ぎようとした。そのトラックの後ろから何か影のような物が飛び出してきたと同時に「ドンッ」という重い音が聞こえた。次の瞬間、私の身体は後部座席の床にすっかり叩き落されていた。これは、私に取って生まれて初めての交通事故だった。大きな音や、自分の体がたたき付けられた事を「事故」という言葉と結び付けるのに、暫く時間が掛かった。車の中と外から空気の漏れる音がする。車に備えられていたのだろう、悲鳴のような警報音がする。ひっきりなしに流れていた音楽はもうない。何とか体を起こして座席に這い上がった所で、自分が置かれた状況を理解し始めた。いくつものエアバッグがすっかり役目を終えて、力なくガスを吐き出していた。―エアバッグは、本当に開く物なのだ―と、不思議に思った。交通事故という不幸の中で、エアバッグがきちんと開く事が酷く矛盾しているような気がした。兄が白く霞んで見えた。シートベルトを外しながら、こちらに乗り出している。義姉は、ヘッドレストの向こうで、頭の機能を確かめるように、首を振っていた。兄は何も言わずに、車を降りた。俄かに私は自分がもう死んでいるのではないかと不安になったが、首で脈打つ血管が襟に触れて、それを打ち消した。

「大丈夫?」

と言いながら私を見る義姉の顔は、いつもより透明で、擦りガラスを思わせた。何かの罰を受けたのだ、と思った。「侮り」や「不在」などという言葉を呟き続けた不遜な態度が私の身体をすっかり孤独にした。衝撃とともに不要のモノが振り落とされ、私はただそんなことを考えていた罰を受けたのだ、と観念したのだった。兄が一番先に車を降り、義姉が一番先に人間らしい言葉を発したことこそその証拠ではないか。私は何も言えずに、ただ義姉の顔をぼんやりと見ていた。彼女の顔は、今にも泣き出しそうな必死の形相を見せ始めた。ギリギリと音がしそうな程噛み締められたその唇は薄紫色も褪せていた。白い腕がこちらに伸びてきて、私の掌を掴む。ひりひりと冷たいものに触れられて、私の体の熱が少し引いた。

「どこか痛いの?」

義姉は声を大きくした。

「痛くない。どこも痛くない。」

大きく眩暈がしたが、これっぽっちも痛みなど無かった。

自分の声を聞いて、忘れていた時間の流れを把握した。義姉は車を降り、後部座席のドアを開け私を外へと促した。彼女は年嵩の女らしく私の体を抱き起こした。外に出るともう私の眩暈は解けてしまった。密着した義姉の体は、捉え処がない程に柔らかい肉の芯で小さく震えていた。しっとりと汗で湿った彼女の薄い綿のシャツに高原の風が当たると、更に熱を奪われた。兄の赤いステーションワゴンは、路肩の草原に放り出されていた。その鼻の部分などは半分ぐらいに押しつぶされている。前輪も外れて5、6メートル傾斜を下った草原に投げ出されている。握りつぶした紙くずのよろしく複雑に角がつけられたその部分を見るにつけ、ほんの先ほどの車内の音楽や会話は一体何の上に胡坐を掻いていたのかと可笑しくさえ思えるのだった。

兄は、降りてきた私たちを一瞥した後は、ぐるぐると車の周りを歩きながら、ずっとそれを点検するような素振りを見せていた。いくら抜かりなく点検したところで素人目にも手の施しようが無いのは明らかだった。大量に漏れ出した黒い液体がゆっくりと地面を濡らしながら広がって行く。路上にはエンジンが掛かったままのずんぐりとした大きな四駆がこちら向きに止まっていたが、兄はそちらに、気付いてもいない様子だった。銀色のその車は紛うことなく私たちを跳ね飛ばした張本人なのだろう。バンパーが角で二つに割れていたが、それ以外にこれと言って壊れた様子はない。途方にくれていてもどうしようもない。次第に私は現実的になった。

「お兄さん、」

私の声にはっとして兄は顔を上げた。

「とりあえずあちらと話をした方がいいんじゃないの?」

いつの間にか私の両の腕の中にいた義姉も、あちらに顔を向けた。兄夫婦の心ここに在らずという様子は、思いがけない無邪気さだった。私たちは三人とも、今しがたの事故からどれぐらいの時間が経ったのかさえ分からないでいた。とはいえ、私には「兄の車はもう二度と自力で走れない」という事実を受け入れる程度の正気が戻っている。相手を含め誰も死ななかったし、目に見える怪我すらしていない訳だ。ましてや、こちらには全く非の無い事故である。それだというのに、私の発破にも二人はまだ呆けた視線を、あちらの方へ何となく泳がせるだけなのだった。

私は二人を諦めた。姉の体を解放して向こうの車へと向かった。見上げるほどの大きな車だ。ステップなどは、私の膝ほどの高さがあった。暫く、中を伺ってドアが開くのを待ったが、その気配は無かった。業を煮やして運転席のドアを掴んだ。それは、ガッシャンと「錠」を思わせる大げさな音と振動を起こした。そして、その音に相応しく重いドアだった。出来るだけ落ち着いた様子を見せられるように表情を殺して、隙間から運転手を見上げた。驚いた事に彼は私と年の変わらない痩せて奥目の男だった。スモークのかけられた窓と、その出で立ちはまるでアメリカの金持ちの車のように見えた。まさか、アメリカの金持ちが乗っているとまでは思っていなかったが、彼の登場は私をたじろがせるのに充分だった。何とか無表情のままドアと運転席の間に滑り込んだ。奥には暗い色のサングラスをかけた義姉よりも少し年上に見える女が座っていた。女は自分の膝当たりを見たままこちらを見ようともしない。運転席の男はと言えばこちらも真正面を睨み付けたまま、尋常ではない鼻息をしている。

「あのぉ。」

声を掛けても、二人は微動だにしない。

「ショックなのは重々承知しているのですが、皆怪我も無いようですし・・・」

ドアのガラス越しに赤い車の方を見た。薄暗い幕の向こうに兄夫婦が寄り添ってこちらを見ているのが明瞭に見える。

この二人の車のエンジン音が遠くに聞こえる。音楽もかかっていない車内の静けさは私に味方した。

「このままここにいても、仕方が無いので話し合いをしませんか?」

女の方が小さく唇を窄めると、フーッと息を吐いた。彼女は目いっぱい男の方に身を捩りながら、こちら側の手を男の膝の上に置いた。一体何をし始めるのかと考える間が充分にあって後、反対の手で運転席の前にあるボタンを押した。エンジンが止まった。更に静まり返った車内で、彼女は体勢を戻した。彼女の手が男の肩に優しく触れた。男は横目で私を見ながら、ようやくハンドルから手を離した。

年が離れた弟であることを理解するのは簡単だった。しかし女が男に奇妙な親密さを見せるのに驚いた。同じ位年の離れた私と兄には考えられない動きだった。―姉と弟だと、こういう具合なのかもしれない―と、また要らぬ事を考えてしまった。本筋を離れてまでそんな事を考える必要はない、と、振り払った所で、女が追い討ちをかけた。彼女は男に口角を上げて顎をしゃくって見せたのだ。男はシートベルトをゆっくりと外した。とうとう滑り落ちるように車から降りてきた男の背丈は随分と小さかった。私と向かい合ってしまったのに、依然顔をしかめて視線を逃がし続けるだけだ。拗ね尽くしたような彼の佇まいに沸々と苛立ちが沸いてくる。突然母に巣立ちを強いられた幼獣に似ていた。彼は人間なので、鼻を悲しく鳴らす代わりに、虚勢を張っているのだ。悲しみと虚勢が交じり合うと、拗ねという形を取るのかも知れない。とはいえ、私に出来る事は苛立ちを隠しつつドアを率先して閉めやることだけだった。

―交通事故を起こしたのだ。この華奢な若者が兄夫婦以上に混乱しているのも当然ではないか。―私は、車から降ろされても歩き出そうとしな男の袖あたりを引っ張る言い訳を考えた。

「引き摺り出された」と言うに相応しい状態で兄夫婦の前に男が立ったのは、彼が往生際悪くのろのろと歩いたせいだ。兄は眼を細めて苛立ちを顕《あらわ》にした。義姉は片手で額を押さえながら俯いた。男は、鼻で荒く呼吸を繰り返していた。彼は頑として口を開かなかった。

最早、兄に彼を預けて他人事になったという気楽さが私を無遠慮にさせた。

「あなた、何かおっしゃったら?」

私の声が響いて、男が息を止めた。

「お前は黙ってろ。」

兄が私を睨む。穏やかな口調だったとは言え、こんな威圧的な台詞を兄の口から聞くのは初めてで、私は戸惑った。義姉は頭を抱えたままだ。男が下を向いて、また鼻息を荒くした。

ままよ、と私の心は蚊帳の外へと繰り出しつつも、これと言ってやることが無いのは明らかだ。ワザとらしくその場を離れるのも自分が許さない。せめて、事故現場というものを良く見ておこう、とぐるりと見渡してみた。鳥のさえずり。見えるのは、濃い緑の山々と、残骸となった赤い車、青い空、居座り続ける四駆、すっかり弱り切って機嫌の悪そうな義姉、私が用意した舞台で落ち着きを取り戻した兄。そして、 "ハイキングでございます" 然とした男の装い。事故、とは・・・人間の営みの中で起こる、誰もが『意図』しなかった不幸な出来事のことを言う。もし、彼がこの事故が起こることを想定していたとすれば・・・今今朝着替えをする時にこの服(それは、登山用の分厚い綿のシャツと、アイロンの折り目がついたトレッキングパンツだったのだが)を選んだだろうか。彼の服はあの年の離れた姉が見立てるのだろう。山へ御成りの若い君主に用意されるような衣装だ。蝋を塗付けたように張りがある彼の若い肌は、服装を益々お仕着せじみた物に見せていた。

「あれは、君の車か?」

兄がずんぐりとした車を指差す。男のほうは俯いたまま辛うじて首を縦に振った。兄はため息をつくと、

「君の過失だということは分かっているかい?」

と、男の顔を覗き込んだ。また小さく頷く。兄はもう何も言わず、ゆっくりと男と並んでその背を押した。二人は例の堂々たる四駆へと向かった。兄は運転席のドアを開けて座席に座った。カッチンカッチンと硬い音を出すランプを点灯させ、跳ね上げ式のバックドアを開けて車から降りた。バックドアはこの状況を嘲るかの如きひょうきんなブザーを鳴らしながら開いた。その間助手席の女はといえば、我関せずとばかりに兄に一瞥も与えないのだった。男は兄に指示されるままカーゴルームから何かを取り出したして峠の向こう側へと消えていった。

兄が一人で戻って来ると義姉は膨れっ面で

「早く苺を摘みに行きたいのに!」

と、駄々をこねた。兄は妻の肩を抱きながら

「行くさ。すぐ行こう。」

甘やかに応じた。戻ってきた男の様子を伺うこともせず兄は赤い車の方に体を向け

「この車はどう修理しても乗れそうに無い。そうだろう?」

男が件の調子で頷く。兄はそれを見ないし、男も意地でも声を出すと言う労力を惜しみたいという風だった。

「この事故の責任は君にある・・・」

また頷く。

「警察に事故の処理をさせて保険会社を呼ぶか、ここで示談を済ませるかどちらかだ。僕は僕自身がこの事故で損をしなければいい。お陰様でとでも言うか、不幸中の幸いとでも言うか、妻も妹も無事だ。つまり、僕が君に求めるものは単純に僕の車だ。」

男は時々上目遣いで私たちを見上げながらも、黙って頷き続けた。

「君が今すぐこれと同じ車を持って来て、僕の車の後片付けをしてくれればそれでいいんだ。これが示談の条件だ。もしそれが不可能であれば、警察を呼んで通り一遍のことを始めるしかない。」

男が今回は助手席に残した女の方を振り返った。背を向けたままお構いなしに兄が続ける。

「君には、この車を新車で買う現金があるかい?僕がしているのは、『君にそれだけのお金があれば、それを今すぐ持って来て欲しい。若しくは、そのお金で僕に車を買って来てくれてもいい。それが出来ないならば、警察を呼ぼう。』それだけの話なんだよ。」

兄がようやく振り返った。男は奥目で兄を見上げながら初めて声を出した。その目は潤んで殆ど兄を睨みつけていた。

「僕は・・・わざとぶつけたんじゃありません。」

男は鼻に懸かった声をしていた。私はその声を聞いて初めて彼に同情した。未熟で若々しい真っ直ぐな声だったからだ。彼と同じ立場に置かれたとしたら・・・。被害者だとはいえ、年長者には多少の酌量を求めたくもなるだろう。お互いの運の悪さは平等なのだ。これは事故なのだから。私は彼の握られたこぶしを見た。

「君が、わざとぶつけたなんで僕は全く思っていないんだ。これは事故だからね。でも、誰の過失ということは、君自身よく分かっているじゃないか。僕には君によって何らかの損害を受ける理由はこれっぽっちも無いんだよ。もしも僕たち三人が大怪我をしたり、死んだりしていたら、と考えてみればいい。これぐらいの補償大したことではない。」

男は急に呆然と首をかしげた。すると突然義姉が

「いくらお金を払ってもらった所で、今日の苺は明日には無いのよ。」

と、居丈高に呟いた。兄が揺するように妻の肩を掴んだ。彼女は乾いた目で男を凝視する。兄は妻を咎めなかった。その代わりに義姉の言葉を無かったことにして、

「そうならなかった幸運を喜ぶべきだ。」

いっそう声を小さく、低くして言った。妻の態度を補って帳尻を合わせようという兄の口ぶりは非常に滑稽に思われた。いや、全てが滑稽に思われた。我侭を言う義姉にしろ、それに応えようとして埒の明かない取引を提案する兄にしろ、この責任能力の無さに同情を求める男にしろ、あの助手席に居座り続ける女にしろ馬鹿にしている。何かを馬鹿にしている。事故を利用して夫々が自らを滑稽の権化にしようとしている。男は、もはや運の尽きと覚悟を決めたのか、一文字に口を結んでいる。途端に腹が立った。いつまで続くのか分からない茶番に付き合っている内に、お腹も減り、喉も渇いた。

「もういいじゃないの、警察を呼べば。私が呼ぶわ。」

私は鞄を残した赤い車へと踵を返した。今度は、兄も私を叱らなかった。車内は荒れていた。私が、このイライラを持てる力全てで以ってぶちまけたとしても、ここまで破壊できないだろうと言う被害の大きさを目にして、気が静まった。誰も怪我をしなかったのは、兄が言う通り幸運なのだ。ほうほうの体で降りたときには気づかなかったが、映画が流れていた液晶にはぞっとするほど鮮やかな色で模様がついている。私が頭をぶつけて割ったのだろう。触ってみると、鋭い切断面が指先に引っかかる。吃驚して手を引っ込めた。機械だとはいえ、痛ましく思われて、シートを撫でてやった。前方でもいろいろな物が在るべき処から脱落していた。足元に落ちているバッグを拾うと、出来るだけ優しくドアを閉めてやった。

三人は二対一で向かい合ったまま黙っていた。

「お兄さん、ここは何ていう場所なの?」

携帯電話に警察の番号を入れて、通話ボタンだけを押せばいいようにして返事を待った。

「この子、免許を持っていないんですって。」

黙って男の顔を見る兄の代わりに、言ったのは義姉だった。

「でも、あの車はこの人の物なんでしょう?」

男も兄を見つめる。

「今更、そんな事はどうでも良いわ。」

私たちは被害者で、彼は加害者なのだ。彼が運転免許を持っていようがいまいが、その事実に変わりはない。ましてや、持っていないという事が本当なら、尚更情状酌量の余地が失われるだけのことだ。この巣立ちの雛に構って、何時間も話し合いを続けるよりは、義姉の希望通りタクシーなり、何なり車を呼んで山へ行けばいい。精々「良いお灸になっただろう」と、餞の心で言い訳をすれば良いではないか。そんな私の心中にはお構い無しに兄が続けた。

「念のために訊くが、あの車は君の物で、君には運転免許証も、責任を果たすだけの現金も無い。そういう事だね。」

男は、ゆっくりと頷いた。

「もう一つ訊くが、彼女は君の家族か?」

彼は一瞬戸惑ったように私の方を見た。

「妻です。」

「えっ?」

私は思わず声を挙げた。兄夫婦は一向に表情を変えない。「妻?」心の中で反芻してみた。それまでの子供のような態度を途端に捨てて、きっぱりと「妻です。」と宣言したのだった。

「じゃあ、君の奥さんと話をさせてもらおう。いいね?」

頷くと彼は車へと駆け出した。

「何故警察に連絡しないの?」

二人を責めた。義姉が暫く眉を寄せる

「こんなことの始末のために、お金を請求し続けたり、警察に呼び出されたり、連絡を取り合ったり、時間の無駄よ。」

と、彼女は首を横に振った。咄嗟に兄が久しぶりに見せた笑顔でいった。

「僕は違うよ。単純に取りっぱぐれたく無いだけだ。苺も車も・・・。」

そういえば、二年前の夏に「苺は一気に実るから、一週間しか採れないんですって」と、義姉が言っていた。男はといえば、車のドアを閉め切って『妻』と話し込んでいる。フィルムの貼られた窓の上で黒い影だけが、悠長に交わったり離れたりしていた。五、六分は充分に篭った後、二人はやっと降りてきた。すらりとした他所行きのワンピースの女が、その『夫』を待たずカツカツと靴を鳴らし歩いて来る。サングラスはこちらではなく、遠い山を仰いでいる。「まあ、何て素敵な所なんでしょう!」とでも言いたげに峠の風を首筋で楽しんでいた。握手するには近すぎる距離まで来てから

「宅が、大変な事をしてしまいまして・・・」

兄を見上げた。そして義姉の方に軽く頭を下げた。

「こんなところでと言うか、こんな状況でまたお会いするなんて、余程の縁とでもいいましょうか・・・。」

彼女の声は早口で、意外な貫禄を持っていた。そして今までの「私には関係ない」という態度を完全に棚に上げて、酷く慇懃な言葉遣いをした。彼女の襟足で揃えられた髪がさらさらと揺れた。項の細いネックレスに未だ若い太陽の光が反射した。義姉の浮腫みがちな瞼の向こうで、瞳が小さく震えた。義姉は鼻の頭に滲んだ汗を人差し指で仕切に拭った。余程具合が悪い相手なのだろうか。車も殆ど通らないこの峠で、知り合いの二人が出会うというのはやはり余程の縁なのだろう。しかも、こんな《、、、》状況《、、》で。しかしながら、「妻です」の男の告白から、無視を決め込んでいた女の登場と如何にも世慣れした挨拶、義姉と『妻』が既知の間柄であったことまで、何もかもが「事故」という物の本質を表しているのだ、と、素直に受け入れられもした。つまりその出来事は誰もが予期しなかった不幸な運命でしかないと。事故の衝撃のすぐ後に、自分が生きているのを不思議に思ったほどの不運の中では、もう何が起こっても可笑しくはなかった。

女の闖入によって更に弾き出された形になった私は、気がつくと、彼女の『夫』と並んでいた。男は先程より余程安心した風で、腕組みなどをしている。誰かが通りがかれば、私とこの男の方が余程兄妹か姉弟に見えるだろう。しかし、車がぶつかって以来一台も車は通らなかったはずだ。いや、もしかしたら通った車に気がつかなかっただけかもしれない。女の早口な話が続いていた。

―・・・ですけど、コチラがどうしても運転したいと言うもので。それでホテルを出て暫くしたところから運転を代わったんです。ほんの二、三キロ。」

自分の話をされたので、男は急に顔をそむけた。この幼さが赦されるのなら、例の歌のあざといあどけなさなど更に赦されても可笑しくない。兄が口を開いた。

「事情は、分かりましたが・・・『左様ですか、ごきげんよう』というわけには行かないのはそちらも御承知でしょう。」

「それはもちろん。数日待っていただけましたら、私の方からそちらにお車のお代をお届けしようと。こう思っておりまして。」

彼女のヒールが、カチカチと音を立てているのに気づいた。

「ところで、あの車は彼の車だと言う事ですが?」

兄の言葉に、女は早口を加速した。

「あぁ。あれは、あれなんです。私がコチラももうすぐ免許を取るというので、私が、この間、買ったんです。」

―アレ、アレ、ワタクシガ、ワタクシガ―

繰り返される言葉が、言わんとする旨を強調する。しなを作った物腰と、女らしい服装が、さらに彼女の心中を暴き出す。―この子が欲しいと言うので、車を買い与えました。現在名義は私のものですが、免許を取れば、どちらにしろ彼が乗る車ですので、彼の車と言うことに(二人の間では)なっています。何故、彼に車を買い与えたかですって?それは、私からのささやかな『愛』の証なのです。そんなことお聞きになっちゃイヤ。ええ、そうですよ。もちろん彼は、『これは、ボクの車だよね?』って聞いてきましたよ。彼の人生でこれほどのプレゼントは無かったわけですから。あなた方だって思いがけないプレゼントに、夢か現実か分からなくなった覚えはあるでしょう?それと同じことですの。でも、私たちの愛において、積極的なのは彼の方なんです。だから、私は『そうよ。あなたの物よ』と、言いながら、彼の腕をさすってあげるんです。彼の嬉しそうな顔、それこそが私の幸せです。彼の愛情へのお返しと言えば、ささやか過ぎるほどの贈り物。寧ろプレゼントを貰っているのは私の方かもしれませんね。―

「それでは、あなたの車ということでよろしいですか?」

兄は意地悪く質問を繰り返した。

「いや、でも、あれは一応、あのぉ、コチラの為に買ったんですが・・・。コチラには、要らなくなったら売るなり、乗り換えるなり好きにしていいと言ってあったものですから。それで、そういう風になっていまして。」

タイプライターを思わせる活舌の良さと速さで、彼女は私が用意した台詞を遠まわしに吐き出す。

「ということは、名義は彼の?」

「いいえ、今のところは私の。」

男が腕を組んだまま女の後ろで相槌を打った。

「はぁ。」

兄がそちらに一瞬目をやって、ため息に似た声を出す。

「そうだろうとは思ったんですけど、一応確認の為です。僕たちには今日どうしても行きたい場所があって急いでいるんです。出来れば、昼前にはここを出発したい。」

つまり、兄は―あなた方の間柄、背景諸々、自分には無関係で、要求しているのは素早い示談のみである―と、言い放った。

「ええ。」

女は気の抜けた声を出した。

「それに、妻はこの事故の処理の為にあなた方と何度も連絡を取り合うことを嫌がっているんです。私も忙しいですし。お互い時間を節約した方がいいんじゃないかと思います。それで・・・」

兄の提案は「男か女のどちらかが、街へ新車を購入するのに足る現金を取りに行く。そして片方は私たちと共に(苺狩りに)同行する。担保として、この『夫婦』が互いに所有し合う車を現金回収まで兄が預かる。同行する方は担保の保全を監視する役割を帯びる。」というものだった。問題は、どちらが現金を取りに行くか、という事と、街までの足であった。とはいえ、端から女が取りに行くことは、私以外の全員が言外に知っていたようなものであったし、次に車が通ったら街まで乗せて行ってもらえるように依頼する仕事を義姉が引き受けて即時解決を見た。

そこからの兄の捷さは、私でさえ気が引けるほどだった。『夫婦』は兄に言われるままに、愛車の運転席と助手席に座らせられたり、二台の車の間に立たされたり、義姉と私と共に兄の車の壊れ具合を検分したりするポーズを取らされた上で、何枚もの写真を撮られた。彼はそれだけではなく、女の身分証、彼らの車のエンジンルームのタグ類、唯一壊れたバンパー、ありとあらゆるものを撮影した。壊れた車の中から、白い紙を探し出すと、示談書を書かせたりもしていた。

義姉は自分の撮影が済むと、早速車に残した荷物を彼らのテリトリーへと運び始めた。弁当を入れた大きな鞄、大小三つの鍋、下腹あたりから顎まで重ねられた沢山のCD,お守りに至るまで、何度も往復しながらカーゴルームに詰めていった。私も無言の彼女に倣って、楽譜の束や封の付いたままのダンボール箱を運んだ。最後に残ったダッシュボード内の細々とした紙切れなどを取り出すと、義姉が

「もう写真はいいの?」

と叫んだ。兄は自らの車の傍らでしゃがみ込んでいた。生き物であったならもう死後硬直をし始めるであろうその遺骸を再び眺めているのだ。例の二人は、道のあちら側の草原に開放されていた。

「ああ。」

兄の声が、複雑に潰された鉄板に響く。

「行きましょう。」

義姉は私の腕を掴むと、私たちの荷物が新たに積まれた方の車の助手席に私を座らせ、運転席に乗った。

「随分高いわね。」

一瞬、私はこの車の値段のことを考えた。彼女は慣れない車高を確かめるように、ハンドルから顔を突き出している。

「値段のことかと思った。」

深く座り直すと義姉は驚いた顔をして

「そりゃあ、高いでしょうよ。」

と、自分を納得させるかのように頷いた。

夫々ドアを閉めたと同時にエンジンが掛かった。なるほど、大きく切られたフロントガラスからの眺めには体が軽くなるような美しさがあった。驚いてこちらを振り返る夫婦の方に近づいて見下ろしたかと思うと、一気にハンドルを切った。バックして大胆に切り返し、勢いよく兄の前へと滑り込んだ。そしてその場で空しく強くアクセルを踏んでから、エンジンを切った。

「怖かった?」

目を細めて笑う。

「それにしても、あちらの奥様を乗せてくれる車が通るかどうかよね。」

遂に正しい方向を向いた車のまん前には、山々が重厚な絨毯を敷き詰めた如く広がっていた。裾野までの緑の濃淡がまだ熟れない夏を告げていた。

山裾には、途切れ途切れに、車道があるのがわかった。かなり遠くからでも車が走ってくるのが見えるはずだ。

「お義姉さん、あの女と知り合いだったの?」

義姉は困ったように、唇を突き出して暫く考えた後で、

「お友達じゃないんだけど・・・。仕事に行った先の人なのよ。」

そう言い切ると、車内をぐるりと見回した。彼女の目が、運転席と助手席の間にあった小さなナイロン袋を見つけた。それは小さく白い手の上にあっという間に載せられた。口を几帳面に縛られた半透明のその中に、小指の先程の赤い粒が幾つかくっ付きあっていた。彼女は両手にそれを挟むと、ゆっくりと両手を動かした。指輪も無い彼女の手はまるで鳩が呼吸をしているように見えた。

「苺だー。」

縛られた口に鼻を近づけて言った。

「ほら、」

突き出さされた袋からは、甘く鋭い香がする。苺の臭いが付いたティッシュのような、いかにも苺です、という匂いだった。義姉は神妙にこちらを見ている。

「本当だ。」

「あの人たち、よっぽど早起きしたのね。」

感心したような口ぶりで義姉が言った。彼女は正面を向いて、袋を弄んでいた手を休ませた。

「あれ見て、車よ。」

そう言うや否や、彼女は車を飛び降り、真っ白のスニーカーを履いた足で峠を駆け下りた。私も他人の家の留守番をしているような心もとなさから、車を降りた。見事数分後には、義姉が家族連れの黒いセダンに乗って戻ってきた。

車を路肩に止めた一家は、義姉に付いてぞろぞろと車を降りてきた。運転していた三十代後半ぐらいの男が、道を渡って兄の傍へ行きしなに大きく伸びをした。

「いや、これはひどいですね。」

徹底的に他人事という彼の口ぶりが、鬱屈していた雰囲気を和ませた。同じ年の頃の彼の妻の横には十歳ぐらいの男の子がいる。今朝まで車だった物体を、恐ろしいものでも見るかのように、鼻に皺を寄せて凝視している。

義姉が、一際にこやかに

「乗せて下さるんですってー!」

と、『夫婦』を呼んだ。まっすぐに挙げられた手は、親しみを演じた。

『妻』がその家族連れの車に乗り込むまで義姉は明るく振る舞い、彼女には何も言わせず背中を抱いて車に乗せてやったのだった。彼女は、今までに見せたことのない活発さで『妻』の友人の振りをした。それは、この珍妙な五人の集まりに家族連れが驚かないよう、『妻』が道中事情を聞かれて説明に困らないよう、と言う配慮だった。しかし、意地を見せたのは『妻』の方だった。

「あのう。」

と、後部座席から兄を呼ぶと

「どなたが運転されるんでしょう?」

と、訊く。

「私か妻が運転します。少なくとも彼には運転させませんから、御心配なく。」

「いえ、男性が運転してくださった方が・・・あの車は大きいでしょう・・・ですから。」

拝む形に合わせた彼女の指でダイヤが光った。

「万が一あなたの車を・・・」

「お待たせいたしました。申し訳御座いません。」

膠もない。彼女は口を、横に広げて、義姉の方に会釈をした。車はクラクションを鳴らして走り去った。

「壊してしまっても」

兄の声が空しくアスファルトの上に後れた。『妻』の思わぬ返り討ちは、残された人々の間に、居心地の悪い沈黙を齎した。とはいえ、一つ呼吸をする間にも、兄に写真を取られた時の『夫婦』の呆然とした表情などが蘇ってきて、即ちそれは痛々しく可愛らしい復讐だと思われた。

「壊したとしても・・・」

決まりの悪さを隠すように、最早『妻』には届かない台詞を繰り返しながら真面目な目つきを作って見せた。

「・・・だとしても、苺を摘みにいくんだよな。」

助けを求められた形になった妻は「我が意を得たり」という笑顔で優しさを見せた。そして彼女は夫の腰に腕を廻し、道路の向こう側へと促した。

私と男は彼らの後に続くだけだった。『妻』の希望通り、兄は運転席に、義姉は助手席に乗り込んだ。最早何らかの逡巡を以って眺められることも無い残骸の周りには、一面液体が溜まっていた。光を通さないその黒い油に、青々とした空と沢山の雲が描かれた。それは武陵桃源を蓋うに相応しい景色だった。エンジンが掛けられて像の上に漣が立った。ふと見上げると、ヒヨドリが低く横切った。あの山の方から飛んできたのだと思った。

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