花のような

 ああ、そうですか。あなたが?その匂いに気付いたとは・・・。素晴らしい。誰もがその匂いに気付くとは限らないのです。今までの功徳にも依ります。何よりも縁と言うものがあるのです。大師様は偉大です。大師様の匂いは御自身の戒の厳守と修行の果以外の何ものでも無いのです。それは、偏在するとはいえ、いつでも誰にでも感じられるものでもないのです。現に貴方も、再び大師様をお参りされて御覧なさい。次には恐らく障碍が生じてそれを感じられないでしょう。実際今日あなたは大師様からこのような匂いを頂けるなど、思ってもいらっしゃらなかったはずです。

 一つお話をしましょう。私は今となっては平々凡々、鋭さのかけらも無い一介の坊主になってしまいましたが、赤ん坊の私は不思議な特技を持っていました。寺の坊主が経を読むのを聴けば、一度で全部覚えることが出来た。時には、初めて聴く経典であっても、坊主たちが読み始めると、先んじて空で読むことも出来ました。とはいえ、これは私が覚えている話でもなく、本人とて多くの人の証言を信じているだけのことです。その噂を聞きつけて、師が私を訪ねて来られたのでしょう。その頃のことは、もう全て霧中のものです。いつの間にか、私は師の元で暮らし始めていたのです。私の記憶の霧が晴れるのはそれ以降のことです。ですから、子供時代の思い出といえば、常に師と共にありました。つまり私は初めから僧衣を着、僧侶としての暮らししかしたことが無いのです。師は幼い私を抱いて寝るのでした。寝入りばなにする、遠くにいらっしゃる大師様の話や、仏様の物語はいつも幸せな夢へと導いてくれました。その頃に見た夢を今でも思い出すことがあります。ある明け方の夢に視界に入らない程大きな仏様と出会ったことがありました。高く見上げても仏様は無限に広がって月の色に輝いていらっしゃいます。左を見ても、右を見ても仏様の御身体に終わりというものがないのです。とはいえ、仏の全ては私に見えてもいるのです。私は林檎を食べながらそれを平然と眺めていました。ふと私は「何か素晴らしいものを見た」と心の高揚を感じました。口の中にある林檎は何とも言われぬよい香をさせていました。良く味わえば味と香には境目が無く、味であるのか、香であるのかすら区別が付きません。「不思議なことだ」と、目を閉じてさらに口中のものに近づかんと心を静めました。結局のところ、その香と味は眼前の仏様と一体であり、目を閉じたまま私はありありと、かの無限の仏様を見つめているだけなのでした。つまり、香も、味も、仏様のお姿も一つのものなのです。私は大変に幸福な気持ちになって、ゆっくりと目を開けました。次に私に見えたのは・・・きっと貴方はお分かりになったでしょうが・・・私が見たのは夜明けの薄明かりの中で横たわる、師の胸元でした。「わが子よ、いかがした?」と私の目覚めを知った師がお尋ねになります。私はお答えすることが出来ません。そもそも、夢の帳の外には私が見たものを顕にする言葉など無いのです。「わが子よ、夢を見たか?」頷くしかありません。「夢に物を食うたか?」「夢に貴人を見たか?」立て続けに師が優しく問われました。ひたすら頷くばかりです。最後に師は「夢に良き香を嗅いだか?」とおっしゃいました。私は、不思議な夢のせいで、香というものの実体が分からなくなってしまいましたから、その言葉の意味を思い出そうと犬のように鼻を動かしました。正に、私が夢に嗅いだ匂いは、師の体から発せられる不思議な芳香に間違いありませんでした。それまでに気付かなかったのか、突然その時だけその香が発せられたのかは分かりません。敢えて例えるならば、芳香を発する花の香をきめの細かい絹で以って濾したような繊細な香です。匂いの付いた水を作るときには、花を薬品や油に浸して匂いを抽出しますから、全く混じりけが無い匂いなどというものを作ることはできないでしょう。無理に揮発させるものの臭い、匂いを長持ちさせる物質の下心のような臭いが必ず鼻に付くはずです。しかしながらそれは何の余計なものも含まなければ、青臭い花の体臭も持たない花の真髄のようなものだったのです。宛ら心とは斯様なものかと、幾分知恵のついた今なら思えもしますが・・・。当時の私には何らかの例えや、何らかの否定で世界を作り上げることなど出来ませんから、唯唯黙ったまま師の匂いを楽しみ、深呼吸するだけでした。師は横になったまま、「今日はご縁日であるから、お前の夢は縁起がよい。」とおっしゃいましたので、現実的な気持ちとして喜んだとでも申しましょうか、私の今生での成果を予言されたように思って素直に喜んだのを覚えております。夜は白々と明けようとしていました。平和な時間の裳裾を私たちが見送ろうとしていた頃のことです。

 大師様が国を追われてかの大航海をされたことを貴方はもちろんご存知でしょう。当時私はまだ四つか五つでした。戦乱と宗派間の争いに巻き込まれ御命を狙われた大師様は中央より追っ手を逃れ、船で祖国を離れられました。師と大師様はもちろん面識があったのですが、幼かった私はそれまで中央まで参じて大師様に拝する機会を得ていなかったのです。御使いによって私に届けられた大師様縁の品が幾つか手元にあるだけでした。まだお若かった大師様のご真影は私たちの僧坊にもあったのでしょうが、同じ法脈に連なる多くの高僧の写しからこれが大師様だと師は私にお教えくださったことが無いような気がします。斥侯が忍んできて師に大師様の出国を告げたというようなことがあったのか、師が神通力でそれを知ったのか、私には判りません。その日、やけに永く静かな朝を過ごしました。いつもより余計に読経が続くのを私は不思議にも思わず、また守護尊のご縁日なのだろうと、珍しく揚げられた厳かな垂れ衣を眺めました。御供養が済むと師は「暇請いをせよ」とおっしゃいました。「イトマゴイ」という言葉の意味が分からず、黙ってお座りになる師に倣い、私も仏様を見上げるしかなかったのです。「それで、良い」と間もなくおっしゃいましたので、私のイトマゴイはあっけないものでした。私たちはいつもするお拝をせずに寺を出ました。寺の僧都が二人だけ従いました。彼らはいつも身近に我々の世話をする者達でした。その他の読経頭や、番頭、私の遊び相手をしていた小僧達は門で我々を見送りました。ある者は涙を流し、ある者は「どうぞ思い出してください」と馬上の師と私に祝福を求めました。また、年のいった坊主達は静かに見つめていました。只ならぬ時風を感じたのはこの時だけでした。私は意味も分からず、悲しむことも無く、大人たちの哀願に満ちた瞳を漠とした現象として、非常な現象として受け入れました。季節は盛夏でした。五月蝿く鳴き続ける蝉の声と、残される僧侶達の悲しみが私には区別されること無く、同じ風景として映っていました。私達が寺を発った後、多くの僧侶たちが殺され、捉えられたと聞きました。事実、二目会う事ができたのは数十人いた彼らの中のたった一人だけだったのです。たまに寺に私の顔を見に来ていた両親にも別れを告げることは出来ませんでした。これらはあくまでも後付の話です。私はそんなことを考えてもいませんでしたから。師に向かう所を問えば、「大師様を拝しに参るのだ。」と、おっしゃいますので、不穏な別れをばすっかり忘れ、その日の夕刻になるころにはすっかりこの旅の虜になっていました。その後も道々の瑠璃色の玉薊や私の生家に良く似た民家の外に遊ぶ子らは、それだけで退屈させませんでした。また、初めて拝する大師様のことを考えるだけであっという間に馬上の一日が過ぎました。時に宿を請うた家に子供がいれば、子供らしい遊びにも加わることが出来ましたし、有難がって賑やかな宴を開いてくれる農家も多かったのです。こうして、我々は数日後に港にたどり着きました。ここに来て初めて師は「二度と祖国の土を踏むこともなかろう。しかと心に留めよ」とおっしゃいました。分別のない年頃の子供でしたので、師の言葉で突然に愛着を起こして混乱してしまい泣くより他にしようがありません。大師様にお会いすれば、すぐに故郷に戻って来るとばかりに思っていたので、抗いようもなく襲い掛かる時の流れと言うものを、果てしなく続く時間という怪物を寺や父母を見ずに、彼らの慰めなしに受けて立たなければならないのだとを即座に理解し途方にくれました。何と寂しいことでしょう。師のお袈裟に私の涙が染みを作りました。湿ったところから、あの夢のような匂いがたちのぼりました。絶望の切れ目に私を抱く師の顔を見上げると、二つの眼からやはり涙が零れているのでした。これが私の最後の癇癪だったように思います。その後私はめったに涙を流さなくなりました。また、どうしても泣きたくなった時には師に隠れて泣くように努めました。私は師の涙を底なしの絶望に注がれる甘露だと観じました。また恐れました。そして子供ながらに、自分を激しく責めたのです。港で自分が師を酷く痛めつけたように思ったのです。

 それからの船旅の最中であっても、大師様をはじめ我々が匿われた隣国に着いてからも暫くの間、師は私を抱いて寝ていらっしゃいました。時々に感じられるあの匂いが私の一番の慰めであり、仏のご加護そのもののように思われました。初めて拝した大師様からも同じ匂いを聴いてからは、更に確信を持ちました。しかし、それもこの国での暮らしに慣れる頃にはすっかり忘れてしまっていたのです。おそらく、私自身がその遍くある匂いを感じられなくなっていた、それだけのことでしょう。

 時が経ち、私は幸いにもここで修行をすることが出来ました。役職を帯び、忙しく働きもしました。故郷から命からがら逃れた来た人々から父母の死を、僧侶たちの悲しい末路を聞けば哀れみに胸がふたがれます。大師様から遣わされた法具の数々はあの時寺に残してきましたが、机上の法具を中心にして散らばる親しい人々の屍を何日も夢に見て苦しい思いをすることがありました。そうは言えども、師との死別ほど悲しい出来事はありません。

 師は故郷より伴った二人の僧侶と大師様のお膝元のこの庵でお暮らしでした。私は私で従者と庵を与えられていたのです。御遷化の少し前、大師様の名代としてこの国の王のお誕生日をお祝いする為に一月ほど留守にしていたのです。戻って来た私が国王からの御返礼をお届けに真っ先に大師様を訪ねると、いつもは詳細に国王の御様子を尋ねられる方が、「あん、さよか。」と、贈り物を受け取られただけで黙り込んでしまいました。浮かぬ顔つきで「そちの師の具合がようないということじゃ。過ごすが良い。」と、私を追い立てるように送り出そうとされます。辛うじて退席のお拝をさせていただきそこを出る時には、私はもう大師様のお優しい合図から師の遷化を知っていました。高齢であるとはいえ、一月前までお元気であったので、すっかり慢心していたのです。尻の穴から口の先まで得体の知れないものが入りこんできたように、心の自由が利かなくなりました。港で泣いたようにはもう泣けないのです。庵に向かう馬上で私はひたすら般若心経の呪を唱え続けました。せめて、そうでもしないと、正気が逃げていくような気がしました。しかし、読んでも読んでも呪を体内の化け物が食っているのではないかというほど、儚く腹の中に消えていくばかりです。ついには、「ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてーはらそーぎゃーてーぼーじーそわか」という自分の声が口から出ると同時にカワラケの割れる音に変化するのを聞き、舌には土の味さえしてくるのでした。時々立ち上がろうとする正気が「我狂人にあらずや」と自らの身体をなぞって確かめようとします。庵の入り口に着いたときには、もうその正気さえ力をなくし、「狂わば狂え」とすっかり律することを諦めていました。私の生命と肉体と心と魂は今日の今日までその生存を現身の師に依ってきたのですからその悲しみたるや如何なるものか、あなたもお分かりになるはずです。ずっしりとした悲しみが質量を増して、自分の器を壊してあふれ出す瞬間を私はどう迎えればいいと言うのでしょう。私は馬から下りると恐れを振り切って戸を開けました。その瞬間でした。そこに蟠ったあの匂い。先も言いましたが、私は数十年この匂いを忘れていたのです。「あぁ、これは」と自ずと記憶の底から師からの慈愛に浸かっていた日々を、特にあの港でのお慈悲を思い出していました。今か今かと破裂を待っていた私の心は、悲しみと喜びの全ての感情の境目に美しいあの香に満ちた場所を見出していたのです。いや、私が見出したというのは相応しくないかもしれません。辿りついた奥の部屋に安置されていた御遺体からはそのような香はしなかったのですから。

 あなたが大師様から頂いたお札ですか?これからあの匂いがするですって?さあ、貸して御覧なさい。いかがでしょうね・・・。師の遷化以来私はあの匂いを分別することが出来なくなくなっているのですよ。

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