苺 第三章、第四章

絨毯のような緑の濃淡は、その中へと進むと鬱蒼と道路を覆った。正午を過ぎようとしていた。義姉は用意してきた弁当を私に開かせて、始終窓の外を眺めて沈黙を貫いている男にも勧めた。男は声と息の間の音を出して断った。この若者が、『妻』では無い誰かと一緒か、一人だったら、この熨して来るような疲れは無かっただろう。そうだとしたら、義姉は苺狩りを諦めただろうか?

この男が免許を持っていたとしたら、兄は途中で警察を呼んだだろうか?

『妻』は、もし義姉と知り合いでなかったとしたらもっと強く我を通しただろうか?寧ろ、平身低頭の償いを申し出るということもあったのかもしれない。

呪うべきは運の悪さだ。不運で繋がってしまった今、この男が、もう少し朗らかであれば救われるのに・・・『妻』を乗せた車と別れてこの方、彼は堂々と不機嫌を表明している。兄夫婦も、すっかり黙り込んでしまった。

兄に電話で呼ばれたときに、断っていれば良かったのかも知れない。再び一緒に暮らし始めた義姉の様子を確かめたいという下心が私自身の綻びのように思われた。義姉が苺狩りを口実にしてくれてなければ、私は、その下心だけを手土産に二人の家を訪ねなければならなかったのだ。では、更に遡って二年前、そこで兄夫婦が苺を見つけていなければ・・・切りの無いことだった。そして、四人とも似たり寄ったりの切りの無い事柄を考えているに違いなかった。沈黙がしつこく付き纏う。

「沢山生ってたの?」

それを破ったのは義姉だった。

男が、振り返った。

「苺ですか?」

「ええ。」

「沢山生ってました。」

「ちょっとしか摘まなかったのね?」

彼女は苺の袋を摘まんで座席の間から揺らして見せた。

「・・・。」

男は黙って俯き、深いため息をついた。

「そんな事、どうでもいいじゃないか。心配しなくても二人で全部摘める訳がない。」

兄が、妻を宥めた。義姉は一瞬息を吸い込んで、次の言葉を用意したが、夫が先んじた。

「君は、まだあの工場で働いているのか?」

「いいえ。」

男が初めて素直な目つきをした。兄がこの男の職場を知っている事など既に不思議でもなかった。それよりも寧ろ、彼が「工場」で働いていたと言うことが私を驚かせた。私は、口の中のサンドイッチを急いで飲み込んだ。

「工場で働いていたの?何を作っていたの?」

少し含羞んだ顔は、彼を更に幼く見せた。

「家具を作っているんです。」

小さく囁いた。

「へぇ。」

彼の顔をまじまじと見た。驚いたと同時に、そこに家具職人らしい肉体的な特徴や態度や表情を見つけられるかも知れないと思ったのだ。些細な発見が、彼にかなり年長の『妻』があること、彼女に車を買ってもらったこと、見るからにお仕着せの珍妙な服を着ていることなどを清清しくしてくれると期待した。彼は逃げるように窓に顔を向けた。神経質そうな細い指を膝の上で動かしながら貧乏ゆすりを続けている。未だに動揺しているのだろうか。

「じゃあ、今も家具を作っているのね?」

「・・・」

正面を向いて頷いた。彼の短い睫が頻繁に上下する。針の先程気が咎めて、指の間で緩んだサンドイッチを口に入れた。

期待した物を彼に見出すことは出来なかったが、「家具」という言葉は、それだけで、息苦しさの隙間をふと明るく灯した。家具に興味があった訳ではなかった。育った家にも、一人暮らしをする都会のアパートにも私の選んだ家具などは無く・・・それ以前に私は住まいさえ、自分で選んだことは無かったのだ。だが、その作物の何であれ、巧拙の如何なれ、文化の属する居処のいずれであれ、何かをその手から作り出す事実は彼の存在を力強く肯定した。

不意に、この『夫婦』の家が現実的な美しさを帯びてきた。そこには、彼が『妻』の為に作った椅子やテーブルが置かれているのだ。兄夫婦の家には、兄の商品や、店で売るパンがいつもあるだろうし、義姉のピアノも楽譜もあるが、それらは、二人の暖かい交流の発露と言うには貧しすぎる。細やかに『妻』を慮って作られた家具は、私たちが正に今乗る車と比べても、余程価値があるように思われた。私は『妻』を酷く見縊っていたと反省した。

この車に乗り込んですぐ、私は不運の出所を探る中で、再び義姉の不在を思ったのだった。兄夫婦と、この『夫婦』が、不運で結び付けられているとすれば、義姉の不在も結びついて可笑しくはなかった。私はとうとう、有刺鉄線に触れた。兄とあの『妻』が持った秘密。それは、恐れるに足るものではなかった。闇でもなかった。単なる戯れだ。二人が峠でした言葉遊びのように。その発見をこの家具職人が尚更可愛らしく組み立てた。

窓から差し込む光が揺れた。車は舗装の無い斜面を登り始める。

「もうすぐ着くわよ。」

義姉が言うと間もなく、木の影が大きく刳られた明るい場所に出た。人足が多いのか、そこに来た人々が車を止める場所なのだろう、そのむき出しの土の上に止まった。そこから始まる森の木々は、梢を重ね、草々の縺れに僅かばかりの光を洩らしていた。

微かに付けられた獣道程度の往来がある。その入り口にある木々には、色とりどりの薄い絹を互いに撚り合わせた縄が、高いところで横に張られていた。祠などは見当たらなかった。誰かが作った結界なのだろう。野生動物に関係する場所なのかもしれないが、それらしい警告などはなかった。

兄夫婦が車内で弁当を食べている間、私と男には何もすることが無かった。彼の『妻』はまだ街に到着もしていない時間だ。彼も、終わりの知れない苺狩りを持て余しているのだ。車から降りて、少し離れた場所に岩を見つけて捕虜らしく座っていた。彼には、『妻』から買い与えられた高級車を保守するという任務があるが、彼に今出来ることは何も無い。「罰?」罰ほど隠されたものはなかった。彼は、兄夫婦と彼の『妻』によって、十分すぎるほどそれから守られることに成功したのだから。「捕虜」というのは、罰を受ける誰かではない。何らかの争いに於いて、相手に譲歩を求めるカードだ。カードを守ろうしているのは、『妻』。

『妻』がカードを捨てて、二度と姿を現さないなどという事も有り得る。この二人の夫婦関係に一体どういう保障があるというのだろう。ふと夢見た家具ぐらいしか、二人を繋ぐ暖かい物はなかった。少なくとも兄は、彼を知っていて、義姉は彼の『妻』と友人ではないが知り合いだ。そういう社会的な関係が二人の絆になっているのだろうか?いや、峠で兄に夥しい質問をさせて、『妻』に早口の言い訳をさせる彼ら『夫婦』の関係は社会的な単位として数えるには、特異すぎた。兄とあの『妻』に何らかの愛憎があることを差し引いても、やはり二人は社会的に安定を欠いていた。なら、車こそが捕虜でやはり彼はその保守を命じられただけの人間なのだろうか?

・・・兄夫婦は?もし兄が、この捕虜と同じ立場になったら、義姉は『妻』のように振舞えるだろうか?兄夫婦は易々とかの高級車を召し上げることに成功したが、それは、あの『夫婦』が自分たちの弱点を衒いも無くさらけ出したからだ。正直が美徳なのなら、彼らは聖人である。衒いや秘密が、兄夫婦の守りなら、彼らは悪人である。私には、義姉が次々と弱点を披露して何らかの取引の機を相手に与えるなど想像も出来なかった。兄は捕虜になり得ない。事態が彼らの尊厳に関わってくる前に彼の商才が全てを片付けてしまうだろう。

彼は補償させる交渉に成功した。つまり、金銭を取り上げることができた。彼がこだわりを見せたのはそこだった。最終的にフルオプションが付いた同じメーカーの新車の値段に加え、諸々の手数料、帰りのタクシーの料金まで抜かりなく請求した。もう既に、7,8年は乗った事を考えれば、取りすぎと言ってもよかった。逆に言えば、『妻』は、自身と男の尊厳を高値を付ける事によって守ったのだった。そこでまた、兄は財産の確保に加え、「苺を摘む時間」を付録として要求した。それは、無邪気で、清潔で、物語的に過ぎた。女は拒めなかった。なぜなら、『夫婦』は、その時間をほんのさっき堪能して、それが彼らの愛を証明する美しい一ページに加えられていたからだ。兄以外に義姉の我侭を諌める人間はいなかったが、結局は兄がそれを利用したのではないか。

私は、疲れていた。

苺はどこにあるのだろう?森は、遠く高い風の音に満ちている。小さい赤い実など、ここからは見えない。

男は、背を丸めて、ぼんやりと自分の足元を見つめている。私は男の傍へ行った。

「あなた達も、ここで苺を摘んだの?」

男が鷹揚に私を見上げたのは、ここが車の中の二人からの死角になっているからだろう。彼は照れた笑顔を見せた。

「はい。」

「ここは有名なのね。」

「さあ、それは分かりません。初めて来たので。」

彼は再び下を向いた。彼の『妻』がここを知っていたのだ。兄に聞いたのだろうか。そこまでの親しさが、二人の間にあったのだろうか。

「あなたが兄と知り合いだったなんて。飛んだ偶然もあるものよね。」

男はもう顔を上げなかった。私は、男の隣に、同じ岩の上に腰を下ろした。

「工場で家具を作らせてもらったことがあるんです。お家の。」

不意を突かれた。この男とあの家の家具を結び付けなかのは、単なる思い込みだった。

「私、知らなかったわ・・・。だって、まだあの家は、がらんとしているのよ。」

必要最小限というよりも、必要を満たさない程だった。居間に置かれた例の本棚が一つだけ思い出された。

「あの、本棚?」

「あと、靴箱と、寝室のサイドテーブル。」

笑顔にちらりと見せた白い歯が「不本意ながら」と言いたげだった。

「それだけ?」

「ええ。それだけです。注文がそれだけだったので。まだ、使っていらっしゃるんですか?」

「それはもちろん。だってまだ新しいんでしょう?」

今日もそれらは、「とりあえず」や「今のところ」や「当面は」と言った言い訳と共に置かれていた。男は

「へぇ。」

と、驚いた声をだして、暫く「どこを見ればいいのか分からない」と言った様子できょろきょろ目を動かした。

彼を安心させたいという気持ちが起こったが、私は、複雑に絡んだしがらみに何がどう引っかかるか分からないので、無言でいるしかなかった。彼はこちらをじっと見つめると、

「お二人は、家具に興味など無いんでしょう。きっと。」

それは、彼自身に言い聞かせているようだった。

「そうかもしれないわね。だって、兄夫婦には拘る必要が無いんですもの。お客の多い家じゃないのよ・・・。思ったような仕事が出来なかったあなたには申し訳ないけど。」

「そうですね。」

弱弱しく言った。彼が家具を作っているなど、幸せな幻想でしかなかったと思った。

※※※

「そろそろ、行こうか。」

兄が車を降りて来た。私たちの返事を期待する風でもない、間延びした声だった。彼は再び後部座席に乗り込むと、鍋を取り出した。後から車を降りてきた義姉に一番大きいものを、次に私に一つ渡すと、残りの一つを胸に抱えて森へと歩き始めた。

「あなたは、どうするの?」

と、私が訊くと、彼は立ち上がる素振りも見せず、ここに残ると言う。

「だめよ、行かなきゃ。いなくなられると困るわ。」

義姉が、例のナイロン袋を彼に渡した。彼は、それを受け取り、諦めたのか苦笑いをして立ち上がった。それを見届けてから、義姉は小走りに夫の元へと駆けた。登山道のように見えたものは、春以来やって来たほんの少しの人間が付けた足跡なのだろうか?低い草が踏みしめられて、左右に分かたれただけのものだった。それも、暫くすると消えた。一体どれが苺なのか私には皆目見当が付かなかったが、所々に見える、薄紫の苧環や、赤いボンボンを付けた吾亦紅を、苺までの道標だと想像してみた。上り始めると、この森の頂上が、明るく照らされているのが分かった。それは、あまり遠くはなかった。歩いて登るだけなら、十五分も掛からないだろう。この頂上までの斜面に、いくつの苺があるのだろう。眺め回したところで、それらしい赤い実はひとつも見当たらない。苺は、見つけられるより、隠れたがって、静かに息を潜めていた。

「見つけた!」

一等は義姉だった。上り始めて五分も経たなかった。彼女は頂上を斜にして、しゃがみ込んでいた。ようやく追い付くと、強く苺が香った。彼女が掌の上の実を、もう片方の人差し指で転がす。長さが一cmにも満たない小さな実であった。それは、片面が白々としていて、半分が薄いピンクのまだ熟れないものであった。王冠のような緑のヘタがついている。先頭を登っていた兄も下りて来て、食べてごらんと、促す。義姉の艶々と濡れた薄い唇が微かに動いて、また苺が香る。

「葉っぱも食べちゃった。」

彼女は、咀嚼されてすっかり崩れた緑のへたを摘まんで取り出した。

「酸っぱい?」

兄が訊いた。

「酸っぱくないわ。葉っぱは苦いけど。」

義姉が嬉しそうに笑顔を作った。彼女が葉っぱ言っているのはヘタのことだった。

「どこにあったの?」

私が訊くと、彼女が頭をすっかり膝の上に乗せたので、彼女の髪が松葉ので覆われた地面にかさりと触れた。

「ここよ。」

五cmほどの高さに茂った三つ葉が揺れる。指が触った部分を優しく捲ると、小さな白い花が二、三輪上を向いて咲いているのが見えた。

「ほら。」

彼女が持ち上げたその花束に苺がぶら下がった。指を離すと去年落ちた松葉や、破片になった枯葉の堆積の上に、重たく落ちる。彼女は茎を爪と指の腹で断った。私は、膝から足の甲までを地べたに預けて、肘を突いた。苺の葉は不思議な力で均衡を保ち地表と平行に重なり合っている。それ以外の草花も生い茂る中で、苺の実に触れないよう距離をとりつつ、上空からの落下物を許さないようにと翳されているのは、苺自身の葉々だ。その葉に閉ざされた空間は、夜のような暗がりだった。絡む茎を指でほぐした。軋むような感触に遅れて、茎は緩まり合い、そして離れた。放り出された葉に、やや隠れていた花弁が揺れる。一所から分かれて咲く花々は、軽々と葉の上にあって、実りと共に重さを持ち、間もなくすっかり沈んでしまうのだろう。薄く黄ばんだ花は跳ね返らずに低く震えた。その近くを指先で弄って見ると、果たして、白緑の小さな実が、引き上げられた。思いがけない軽さに最初は見逃しそうになったが、ほの白く浮かび上がった物は、欠けの無い苺の形をしていた。私は丁寧にヘタと茎の境目を切り離そうとした。それは余りにも抵抗無く、ぐずぐずと指先に崩れた。起き上がって膝立ちになる。明るみに晒されて、指先が透明に光る。口に入れると仄かに甘く、遠くに鋭い香りと酸っぱさがあった。

「おいしい?」

義姉が訊いた。美味や不美味とはちがう。美しいか醜いかと聞かれれば、美しい味であった。私は立ち上がって、デニムの膝を払った。生地は湿って、腐りかけの植物のかけらを離そうとしない。

「青くても、甘いのね。」

義姉は心から嬉しそうな笑顔を向けた。

「でも、潰してしまったわ。」

私がそう言うと

「気をつけないと、すごく柔らかいのよ。」 そう彼女は首を横に振った。そして同時に病人を労わるような曇った表情を見せた。

多くの演奏者がそうであるように、彼女は演奏中に気持ちが高まると、宙を見つめる。そういう時には大抵、苦しそうな顔をする。それを思い出させた。

初めて彼女がこの表情を見せた時、一体何を演奏していたのだろう?覚えているのは、「悪い物を見てしまった」という、後ろめたさだった。あれは、多分二人が結婚をする前だっただろう。私はその後、実家を出て学校を卒業し、翻訳事務所で働き始めた。義姉の演奏の表情に慣れた、ということもあるが、人に誘われていく演奏会では演奏者のこういう瞬間を見ないことの方が稀だ。往々にして、聴衆の中にもこういう表情を見出しさえする。音楽が好きであれば、いや、音楽の中に暮らすことが出来れば、私も、こういう宙を見るような顔を作ることが出来るだろう、と考えていた。嗜みの無い私には、あの日、義姉が珍しくぼんやりと鍵盤を見つめて歌った、バート・バカラックという人の歌を飴玉のように両年舐め続けるのが精々だ。それですら、私の中に留まり続けるのに正当な理由を持たなければならなかった。

森の中に、更に小さく篭った苺の茂みは、私の中の雑多なものを濾し取った。私は小さな未熟な果実との出会いに夢中になった。苺を見ながらも、何も見えなかった。鼓動は早まらず、心は震えなかった。だが、「悪いものをみてしまった」と、思わせたああいう顔、今義姉が見せている苦しい表情をきっと私はしてしまった。

なるほど「you」 は、紛れもなく苺のことだったのだとすら思えて、笑いがこみ上げてきた。刹那、鏡を見るように向き合った私と義姉は、それも同時に笑い崩れた。

兄は、既に自分の採集に取り掛かっている。

私たちの足元に置かれた彼の鍋には数粒が転がっていた。義姉が心を奪われる程繊細な苺はそれ自体の重みにも耐えられないのか、じんわりと赤い汁を零していた。

「こんなに潰れるんだったら、ジャムかシロップにするしかないわね。」

「そうだよ。だから、沢山摘まくちゃ。」

兄は、こちらに見向きもせず、荒々しく手を動かす。私は、この辺りにある植物の様子を観察した。何らかの規則を見出せば、苺の茂みを簡単に見つけられるかもしれないと考えたのだ。一定の距離を保って立つのは白樺や松だった。義姉が最初に見つけたのは、白樺の根元だ。森中に、散らばる吾亦紅は教えてくれそうにも無い。名前を知らない花々の姿かたちを覚えようにも、それだけで、気が遠くなるような数だった。厚く重なった松葉の上にあったことだけを頼りにするしかない。私は、すっかりあきらめて、低いところから始めることにした。兄たちに背を向けて、下ろうとすると、男が見えた。青い縄の近くで彼も仕方なく摘み始めたらしい。

「あぁ。」

私は、思わず声を出した。彼の存在を思い出したのだった。胸の辺りが、重たくなる。このトラブルの元凶は、誰の目にも最大の加害者であったが、同時に彼ほど惨めな境遇に置かれている人間は、この中にはいないのだ。義姉は「いなくなられると困る」などと、不躾に言っておきながら、彼のことを気にするそぶりもない。私は、仕方なく彼のところまで降りた。

「ここにも、生ってたのね。」

彼の袋には、苺が更に加えられていた。

「はい。」

「朝もこの辺で摘んだの?」

「はい。ここら辺で見つけたので、余り上まで登らなかったんです。」

私は、彼の横に座ると、その当たりを探った。あっけなく、鈴なりの実を見つけた。

「本当だ!」

兄が言ったように、彼らは十分摘み残していたのだ。摘んだ実を自分用の鍋に入れた。ふもとの苺は、兄たちがいる辺りの物より、赤く熟しているようだった。十個、二十個と摘んでいくうちに、私はコツを覚えて行った。注意をして見ると、思いがけない処からも苺を発見することが出来た。並んで作業をする男は、時々邪魔にも思えたが、作業が続く限りはそんな事が気にならないほど、楽しかった。

私は手を動かしながら、冬を思った。ここよりずっと低い場所にある兄の家も、冬には厚い雪に覆われる。苺は雪の中でも生きるのだろう。根なのか、種なのかは分からないが、姿を変えて、越冬するのだ。そう考えると、夏の初めのしっとりとした温もりに力を借りて作られた果実の静謐さよりも、雪の下で生きる苺の方が、賑やかな生命を生きるのではないか、と思われた。森は時に入り込んだ風を鳴らしたのだろうか?私たちが動かす葉の触れ合う音以外、聞こえるものは無い。

たまに、小さく虫か鼠に食われた苺があった。誰にも見つからないまま、朽ちて土に混ざるものもあった。それでも、苺の臭い、色、繊細さ、可憐さ、美しさは、発見されるために用意された仕掛けだった。苺は、幾重にも守られ、隠されていたが、それですら、隠れん坊の子供の舞台だ。必ず見つけ出されることだけがその遊びの真実であり、希望であり、喜びである。複雑で雑多であればさらにその遊びには相応しい。冬の生命はいずれ来る夏の遊戯を夢見るのだろう。

苺という植物の実は、生命の「夢」そのものなのだ、という空想に至った所で、私は、十分に熟した実を食べてみたくなった。次に見つけたら、きっと食べようと決めた。ジャムにするのなら手間になると、潰れるのもかまわずに実だけを取っていたが、丸々としたその赤い実は、気をつけて茎を残して摘んだ。期待通りに良く熟した実は、余すところ無く一様な赤い色をしていた。規則正しく嵌め込まれた種に焦点を合わせた時、むき出しの腕が一瞬にして粟立って、思わず身震いをした。不意を突かれたとでも言うのか、沢山の種は、実よりも濃い紅色だったのだ。いっぱいに血を吸い終わった蚊の、赤く透けた腹に似ていた。苺は熟し切ると、種まで赤くなるのか・・・と、ため息が漏れる。それにしても、針で突きでもしたら、勢い良く真っ赤な血を噴出しそうな種だ。果実全体がグロテスクな腫れ物のように見えてきた。私は、暫くそれを睨み付けてから、思い切って口へ運ぶ。酸味は力なく、熟れすぎた果物の甘みに押されていた。種は思ったよりも硬かった。それを何度も噛んでみた。粉っぽい舌触りが私を安心させた。唇が甘い汁で濡れた。

ふと我に返ると、男が急いで、視線を反らせる。おかしな所を見られてしまったと、恥ずかしくなった。そして次には、恥ずかしいと思ったことに腹が立ってきた。男は、私に気付かれた事を知っていて、奥目を必死で茂みに向けていた。「この目で、私を見たのだ!」もう長いこと屈んでいたのだろう、立ち上がると背中が深く痛んだ。

「お兄さんたちのところへ行きましょうよ。」

と、言った。男は、座り込んだままこちらを見もせずに、わざとらしく草むらを弄っていた。

「いえ、」

私は許さなかった。

「何も気にすること無いじゃない。あなたは、捕虜かもしれないけど、囚人じゃないわ。もう取引はすんでいるのよ。」

それでも顔を上げない。

「奥様が迎えに来るまでじゃない。私も、あちらに行きたいのに。」

男が突然立ち上がった。私は一瞬突き飛ばされるのではないかと後ずさりした。明らかに上気した彼は、私を残して、大股で登り始めた。渋々と立ち上がって、従うものだと思っていた私は、小さく後悔した。

二人の姿はなかなか見えてこない。だいたい、「妻です」なんて、大見得を切ったのはこの男の方だ。それ以外にあの女をどう呼べばいいというのだ。それだけじゃない。買い与えられた車、とっつぁん坊やのような格好、全部自分の方で準備しておいて、「見ないでくれ、言わないでくれ」と言わんばかりの彼の怒りは図々しい。私はひとしきり言い訳を考えていた。それに、この男は、あの血ではち切れそうな苺を、・・・それを、私が口に入れるのを見ていたのだ。今の今まで汚さないように、注意が払われていたのだろう折り目の鋭いトレッキングパンツが、目に入る。それも、これも、彼らの唯一の救いだった「家具」のファンタジーを台無しにした。ようやく兄夫婦が見えてきたときには、告げ口でもしてやりたい気になった。二人がぼんやりとこちらを見る。兄は、私たちだと分かると、また作業を始めた。義姉は男に向かって笑みを浮かべると

「あなたが居た事、忘れてたわ。」

と、言った。男は、私に対する苛立ちをそのまま吐き出すように深呼吸して、その場に座り込んだ。彼は何をするわけでもなく、ただ頂上に背を向けて座り続けた。私は、黙って仕事を続けた。

男のせいで、苺摘みは単なるジャムの材料集めになった。沢山、素早く摘むことが、唯一の目的になった。それはそれで、時間を忘れさせたし、私がここに来る前に想像していた苺摘みその物ではあった。収穫は、割り振られた小さめのミルクパンの、未だ半分にもなっていなかった。時々、男の方を見下ろした。彼のトレッキングパンツの尻が森の湿り気で汚れていた。彼は、今日一日をかけて失った威厳を急いで取り戻し、若さ故に得られない尊敬を俄仕立てに獲得しようと思ってでもいるのだろうか。舞台用の化粧を施された顔が間近で見ると滑稽であるように、それは彼をまた滑稽にした。車中、彼が「家具」を、作っていると言ったのが本当だとしたら、余程芝居がかったものを作るだろう、と秘かに非難した。彼は想定したお客の気に入るように、分かりやすい印を付けるだろう。トレッキングパンツを今になって汚すように。「高級」、「上品」、「シック」、「良趣味」、「こだわり」、「素朴」、「趣向を凝らした」、「真心」、「哲学」。そういう印を付ければいいのだ。印を欲しがるお客は、いくらでも居る。私の激昂に比例して、鍋は調子よく苺で満たされていった。やはり、一瞬でもあの『妻』が彼の家具に心を奪われたなどというのは、買いかぶりなのだ。彼はあの女に、印を売ったのだ。彼と目が合った瞬間、私は「彼が私を見つめていた」という事を否定した。たまたま、こちらを向いていたのだと、考えようとした。私は自分の思い上がりを恐れた。いや、それ以上に、この男が私の顔や唇に何らかの幻想を抱いたことを恐れた。幻想の先に、私たちの幸せな出会い、囁き、微笑み・・・それらが在ったのかもしれない、と心に過ぎる度に、辱められた気がした。同時にそれは、私自身による辱めでもあった。せめて、

「何見てるのよ!」

と、怒鳴りつけていれば、何倍良かっただろう。その代わりに出た皮肉が彼に先制の機会を与えてしまったのだ。私はジャムの材料を集めるこの静かな仕事に肉体を任せたまま、混乱し続けていた。ひたすら俯き、摘み取っていった。

苺を追って進むうちに、いつしか自分の居場所すら分からなくなる。単純な作業の繰り返しが、徐々に落ち着きを与えてくれる。ふと手を止めて上へ目を遣ると、兄は更に上へと行ってしまったのか、見当たらない。頂上の辺りに透けて見える空は、薄紫色をしている。ここへ来てから何時間経っただろう。私の収穫はまだ鍋の六分目ほどだ。良く考えれば、果実は、精々唇を濡らす程度の大きさだ。粉薬を図る薬剤師の小さな匙ぐらいの物である。鍋を満たすのは簡単ではない。『妻』がやって来るが早いか、苺が満ちるが早いかだ。そう考えると、森に現実が戻ってきて、風の音なども聞こえてきた。鳥の囀りさえ、はっきりとして来た。脇に置いた鍋を抱え上げた。薄暗さの中で目を凝らして見ると、果実の夫々は、もう殆ど形を失っていて、まだ形を保っている幾つかが、黒々とした池の中に島を作っているのだった。鍋を乗せた掌が急に冷えた。

私は下方に義姉を探した。立ち上がって、見まわす。倒れて朽ちた木のささくれ立った株や、茂みを覆う長く太い蔦が、足元を脅かす。急に激しい風が木々を煽り、夕暮れの妖しい空の色が見え隠れした。耳元にまとわり付く蚊の羽音がする。姿が暗がりに紛れて、見当を付けて追い払うしかない。その度に、胸に抱いた収穫を零しそうになる。義姉はまだ我を忘れて苺を摘んでいるのだろう。私は、ゆっくりと下った。長い間、無理な姿勢を続けたからか、踏みしめる足が震えて安定しない。最早蚊に刺されるがままにしていた首筋が痒くなってきた。

「お義姉さん!」

数時間の沈黙に慣れきった喉からは、意図したよりも力のない声が出た。

「・・・・」

耳を澄ますと、遠くで応えるような声が聞こえた。更に下の方だ。木々の間を縫うように歩いた。森の夕べが徒に私を迷わせているような気がした。また強い風が音を立てた。湿って冷えた森に、夏の生暖かい空気が入ってきた。風がやんだ。ほの暗さの中に、輪郭のぼやけた白い物が見えた。

「・・・・」

義姉と男の話し声だった。二人は、立ったまま向き合っているようだった。最初は、義姉が今日の収穫を男に見せているのだ、と思った。近づくと、彼らの姿より、声のほうが先にはっきりとしてきた。

「・・・僕のことを馬鹿にするんだっ!」

男の声は小さかったが、その口調には、憤懣の気配があった。

「・・・・・・・・・・・・・・・」

姉の声は向こうを向いているからか、殆ど聞き取れない。私は、急いだ。義姉に八つ当たりしているのだと思った。

「いや、そうだ。君はそうやって、人を馬鹿にして、侮って、嘲って、一体どうして欲しかったというんだ!」

「馬鹿にしていないわ。馬鹿にされたと勝手に思っているのはあなたよ。あなたがあなたを馬鹿にしているのよ。私は、私の人生は、誰にも馬鹿にされなかった。あなたにだって。そんなこと出来るわけ無いでしょう。私が、私自身を馬鹿にしたことなんて、一度も無いんですもの。そうでしょう?朝だって、打つかって来たのは、あなたの方。私は、出来るだけあなたたちのプライドを傷つけないようにしたわ。夫だってそうよ。双方の良かれを思って、解決方法を見つけたじゃないの。」

私には、彼らの姿がはっきりと見えた。一体何が起こっているのか分からなかった。私には、そこに留まる事しか出来なかった。真っ白なシャツの義姉の背中の上で、髪の影だけが揺れた。男から見れば、義姉の背後に私が見えているはずなのに、気付かないのか、気付いていない振りをしているのか、ひたすら義姉の顔だけを見つめているのだった。彼女は続けた。

「免許を持ってないのだって、あなたの運転していた車が彼女に買ってもらったものだったのだって、私は・・・」

「君は!」

男が声を強めて遮る。

「あの男に飽き足らなかった。商売だけのあの男より、君の事を理解できる僕を選んだんだ。夫の事だって散々馬鹿にした。それで、こっちが駄目になったら、あっちに戻るなんて!君こそ、自分を辱めている。」

言い終えると、男は震える息を吐いた。一瞬の沈黙が、私を苦しめる。

「違うわ。」

「それじゃあ、君は自分が年増の淫売だということに、気がついていないだけだね。僕に捨てられたって、あの男の所に戻らない選択をしても、良かったんだから・・・」

インバイという、言葉の熱っぽさに私はたじろいだ。

「君は、僕の事だって、あの男の事だって愛してないんだ。」

「・・・」

義姉は答えない。

「・・・でも、僕は君に感謝している。君は、彼女という僕を愛してくれる人をきちんと用意してくれた。さすが、経験を積んだオバさんは違うと思ったね。君のことだよ。彼女ちがう。最初から、僕に何が必要か、ということを全部知っていた。自分の工房も持たせてくれたよ。『あんな安アパートに住んでいちゃ駄目だ』と、彼女に言われた。僕は、涙が出るほど嬉しかった。君に話したら取り乱したけど、その道筋を付けたのは、君自身じゃないか。彼女以上に僕を救い出せる人はいなかった!僕は、常に君に苦しめられたからね。君は、いつもあの男と僕を比べた。お金が無い、ピアノが無い、家が無い、車が無い、そういうことで僕はいつも君に責められた。そう言いさえしなかったが、君がいつも不機嫌だったのは、そういう事だ。

君は夫を捨てた。家を捨てて、お金だって殆ど持って来なかった。初めは、それこそが僕への愛の印とさえ思ったけど、すぐに分かった。君は、僕を試していたんだ。『これでも、私を愛せますか?』ってね。流石に経験豊富な淫売は違うね。保険の掛け方までしっかりしている。」

「私が聞いたのは、何故あなたたちが苺を摘みにここに来たのか?っていうことよ。わざわざここまで来て、ちょっとしか摘まなかったのは何故?それだけ。私とあなたが傷つけあった話なんかしたくないわ。その質問が私があなたを馬鹿にしたことになるなんて、さっぱり分からない。別に嫌なら、答えなくてもいいの。」

「君から『次の夏、夫と行こうと思っていた』という話を聞いて、それを妬んで来たんだなんて思ってるんだろう、どうせ。」

「いいえ。私は、ただ不思議に思っただけなの。」

そう言うと、義姉は肩を落とした。男はすっかり俯いてしまった。私は、義姉の不在の理由をあっけなく知った。理解しようとしても、出来ないことの方が多かったが、それでも粗筋は披露されたのだった。私は、誰に言われるでもなく、この成り行きの理由付けをしようとしていた。私と兄の血縁が真実を見ることの障害になるかもしれない、と考えた。私が兄に抱いている愛着、思い出、恩。いや、それ以上に、私たち兄妹はとても似ていた。そういうことが、兄を贔屓する理由になってはいけないと、躍起になった。すっかり冷えていた私の腕には、次々と送られてくる血が勢い良く流れ、火照っていた。

インバイという女たちがこの世にいて、その中の一人が兄の妻であったとしたら、私はその事実を受け入れなければいけない、とすら考えた。兄が私たちを探して、下りて来るのではないか?それも気になった。とはいえ、振り返って兄を探すことも出来なかった。私は、ただ、息を殺して立っているだけだった。

「じゃあ、言うよ。僕はね、君に復讐したかった。君が楽しみにしていた苺摘みを、台無しにしてやりたかった。僕と彼女が先に来て、摘んでしまえばそれでよかった。僕の気が済んだんだ。僕には君の『初めて』なんて、何も残されていなかったんだから。あんな形で君達と出くわすとは思っていなかった。でも、あの事故だって、僕には君に対する天罰のように思える。あんな形で、あの男が請求するなんてね。僕は、君がそれを止めるべきだ、と思ったよ。あれは、君が受けるべき罰なんだから。ここで君達が損を受け入れなければ、また何らかの形で君達は罰を受ける。きっとそうだよ。でも、僕はすでに苺を摘んでいたんだ。」

男は、蔑んだように鼻で笑った。素直な蔑みに思えた。彼に真心があるのなら、最もそれに近かった。

「罰?」

義姉は語尾を下げた。罰。その言葉は、彼の憤りと、それより分厚い甘えに満ちていたのだ。ああ、なるほど。私が彼の真心を感じたのは、その甘えを見たからだ。義姉は、それに気付かないのだろうか。

「何故、罰を受けなきゃいけないの?」

挑戦的な言葉に男は、きっ、と顔を上げた。「それは、君達が僕を馬鹿にしたからだ。」

男の声は、悲しみに満ちていた。

「・・・」

義姉は、それを否定して、堂々巡りの輪を回すことを拒んだ。彼女は、彼が家具の上に塗りたくる「印」など、知りもしないのだ。「印」の下に隠された、彼の意図、それは、切ないほど明確だったではないか。「愛されたい」という彼の切実な願いは、彼女が「愛している」という、「印」を見せることでしか、実現されないというのに。それは、高値で買うことか、褒める事か、素晴らしい贈り物として喜ぶ事か、そういう方法を待ち望んでいたに違いない。彼女は、それに気が付かなかった。

「私は、今でも、間違った事をしたなんて、思っていないのよ。だから、罰なんて言われても、私には分からない。」

「でも、君は、僕を愛して、夫を捨てたんだろう?」

男の切実さは更にはっきりとしてきた。

「それは、・・・」

「私には、愛なんていうことは分からない。でも、あなた、泣いたわね。私が、夫を悲しませることなんて出来ないといった時、泣いたでしょう。子供みたいに泣いた・・・」

義姉は、相変わらずの言葉足らずだった。誤解されるよりは、訳が分からないまま煙に巻いたほうがいい、というのは、彼女の昔からの態度だ。

「僕が、泣いたから、かわいそうに思ったとでも言いたいのか?」

「違うの、私にだって、涙が出る事があるの。素晴らしい演奏を聴いたときなんかに。それ以上に、私の人生で心が揺さぶられることなんて、ないの。」

言い聞かせるように、ゆっくりと話す。

「私は、きっと、あなたが同じような気持ちなんだ、と思ったの。だから、それをゴミ箱に捨てるようなことなんて、私出来なかった。愛するという事は、私には分からない。でも、あなたの目に映っている私は、きっと何よりも綺麗なんだろう、と、思ったの。恥ずかしいけど。だから、私には、私とあなたとの境目が分からなくなった。それだけなの。でもねぇ、それは、あなたを馬鹿にしているわけじゃないのよ。そんな気持ちにしてくれたのは、あなたしかいないんだから。感謝していると言えば、言いすぎだけど、あれは、なるべくしてなったんだ、と思ってる。でも、やっぱり人間が音楽より綺麗になれるなんて、ありえないわ。それが、分かったから、それでいいの。」

正直さの前では、すべての意図が無意味になる。その意味では、義姉は暴力そのものだった。彼女と男との間にあった、湿気の往来、二人の体温が重なり合う部分の熱気、朝日に暴かれる現実、それらに含まれた全ての幻想を彼女は無力にした。

いや、男は、それを否定しようとしている彼女から何らかの「印」を、感じるべきではないだろうか。彼女の中にひっそりと、隠された「印」を、彼は、見ていなかったのだろうか?「愛」という言葉の指すものが、実体を持たず、生まれると同時に崩れ続けていくのなら、何らかの思い出とそれを結び付けようとするのは、傲慢であるということに。ストーリーを語るのは、嘘をつくことだ。この男も、あの『妻』も、兄も、義姉も、私も、全員が同じ不運な惨めさの中に生きているということだけが、事実だった。惨めさは、何とでも呼び方を変えられる変幻自在の舞台として存在しているだけで、たった今惨めさと私に呼ばせている物は、喜びにもなり、美しさにもなり、高さにも、低さにも、尊さにも、卑しさにも、何にでもなるものだった。男は、それを知らないでいた。そして、そこに「惨めさ」という、名称を与えたのは、他の誰でもなく、彼自身だった。

「君が、苺摘みの話しをした時、僕は、『夏になったら行こう』と、言ったね。君は、『もういい』と、言った。『車もないし、もういい』そういったね。それで、僕はひどく腹を立てた。覚えてるか?」

「ええ。あなたは『夫のところに置いてきた車を持って来い』と言ったわね。」

「僕は、あんなに馬鹿にされた事はなかった。だから、まだ君とあのアパートに住んでいた時、彼女を連れ込んで、僕達は寝た。僕と君が寝ていたベッドで寝たんだ。『ざまぁ見ろ、』と、思ったよ。君にね。彼女は、賢いよ。『あの人に悪いわ。』そう言った。『私が、こうすることで、あなたが彼女に優しくできるんだったら、』と、条件を付けた。君の事を蔑ろにはしなかった。でも、彼女は僕を愛した。だから初めて寝た後、僕は苺の話をした。『君から聞いた話だ』って、きちんと説明だってした。彼女は『それなら、一緒に行きましょう。その前に、車を買わなきゃね。』そう言った。君がくれなかった物を、彼女はくれたんだ。それを、車や、金だなんて、思ってないよ。彼女は、僕を愛しているんだ。だから、僕は、彼女を捨てることなんて出来なかった。君に、彼女ほどの優しさがあれば、良かったんだ。今となっては、僕は彼女のことを愛している。」

男は、木で鼻を括ったような言い方で羞恥の火を消そうとしていた。

―私は、そこまで惨めになれない。―

義姉の口から、そう零れるのを待った。

男が、上げた顎を引こうとして、ふと、視線を停めた。それは、義姉を挟んで私が立つ場所と反対側、それより少し上の方だった。ゆっくりと振り返った。兄が下って来るのが、ぼんやりと分かった。焦って義姉と男を見た。男は、私の方をちらと見て、それから、義姉にまた顔を向けた。男は、私にも兄にも気付いていたのだ。

「続けろよ。」

兄が、ようやく義姉の横に辿り着くか否かのところでそう言った。

「やっぱり、何度聞いても、この人の話は分からないの。」

義姉が夫に訴えた。

「あなたの車を取り上げて来い、と言ったのも、苺を彼女と摘んだのも、私への罰なんだって。分からないわ。あなた、分かる?今日、車がぶつかったのも、私が悪いんだって。」

兄が、義姉の肩を抱いた。それでも彼女はインバイめいていなかった。彼女をインバイと呼ばせたのは、彼女が、インバイめくことを恐れないからだった。それは、即ち、男が言うところの、インバイである事だった。義姉はこの男との数ヶ月の暮らしの中で、夫と連絡を取っていた。そして全てを話していたのだろう。私はそう思った。誰も悪くない。見ている物が違いすぎた。彼女が苺を摘むのは希望であり、男が苺を摘むのは、復讐だった。彼女はただ苺を摘める環境を、平和を望んだだけだったのだろう。私が、彼女から読み取った「印」はそれだけだった。一瞬、ほんの一瞬だけ彼女は幻を見たのだ。宙を見るような眼差しで。彼女は決して嘘をつかない。男はそれにすら気付かなかった。

男は、黙って、兄を見据えた。

「君が、妻に復讐したいということは、分かった。君は、復讐すればいい。復讐するには、相手の弱点を知らなければいけない。僕に、アドバイス出来るのは、それだけだね。」

「あなたは、自分をこの女に馬鹿にされてるとは、思わないんですか?」

若者らしい張りのある声が、木霊した。

「思わない。」

男の呼んだ木霊がまだ聞こえているような気がした。

「それに、馬鹿にするか、されるかなんて、僕にはそんなに大切なことだとは、思えない。君は、芸術家だから敏感なのかも知れないけど、愛してくれる奥さんがいる。僕には彼女が戻って来た。それで、充分じゃないか?」

男は、黙っていた。義姉は、嬉しそうに夫を見上げている。

「さあ、戻ろう。彼の奥さんからさっき電話があったよ。もうすぐ着くそうだ。」

兄が私のほうを見て言った。義姉はやっとこちらを振り返り、

「まあ」

と、声を挙げた。

「あなたがいた事、忘れてたわ。」

そう言って笑った。私も、声を出して笑った。

薄いサッカーのシャツが冷やりとした。見上げると、篩いで漉された大きなしずくが零れるように、雨の粒が梢に集められて落ちてくる。風はさらに強く吹き、突然真昼のような明るさで、三人が照らされた。けたたましい雷鳴がそれに遅れた。嵐はまだ遠いのだろうか?また激しく光る。私達が、結界の張ってあるあのとば口のすぐ傍にいたことを知った。一瞬照らされた車の上で、大粒の雹が撥ねている。私はただ、嵐が来る前に苺が摘めた事を喜んでいた。

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