「いちごをつみに、い、き、ま、しょう」

義姉がスピーカーから流れるピアノ曲に合わせて自作の歌詞を歌っている。彼女が頭を預けているヘッドレストの裏にある小さな液晶画面には車内に流れる音楽とは全く関係ない映画が流れていた。中世ヨーロッパの衣装を着けた男女が入り乱れる。―こういう映画は沢山あるな―と、私は思った。「貴人」の喜怒哀楽、悲喜交々を描いた映画だ。テレビを点けるとよくやっている。私は普段から映画を見ないので端から理解するのを諦めていた。とはいえ、液晶の消し方も分からない。抗うほどの物でもない。それで、目に入る生地を贅沢に使った色とりどりの衣装を時々眺めていた。役者は「貴人の気品」を演じようとして往々同じような表情を作る。だから、私は、衣装の綺麗な色だけを眺めてみようと思った。―本当の貴人はきっと違う。私は、生来傅かれて、育った人が見せる屈託のない表情を見てみたいのに・・・―などと、自分の中で騒がしくなる。こちらの方が映像よりも余程疲れるのだった。

「お兄さん、この画面は映像は流れても音はないのね。」

兄はハンドルを握ったまま振り向きもせず

「それは、ヘッドホンを差し込まないと・・・」

と、言う。

「ずっと同じ映画しか流れないのよね。消したらどう?酔うわよ。」

義姉は真後ろにいる私に顔を向けようと上半身をよじった。縮れた長い髪の中に色白の顔が浮かんでいるように見えた。

「うん。そうする。」

「私ね、映画をたくさん見たの。この人と一緒にいた時にはほとんど見なかったのよ。でも、アパートで暮らしてた時には見たわ。」

義姉は表情を変えずにそういうと前を向き

「でも、戻ってきたら見ないわね。やっぱり。見たいと思わないの。」

と言って、口をへの字にして鏡に映した。彼女のゆらりゆらりとした話し方は、職業柄なのか、いつも芝居がかっている。そして話し終わりに笑ったり、顔をしかめたりして「結局のところ」その話が、面白いのか、悲しいのかということを彼女なりに表現するのだった。何と答えるのが正しいのか判断できなかった私は、相変わらず、影を豊富に作っている衣装を見た。義姉はいつの間にか正面を見ていた。動き続けるドレスの裾から撫で上げるように西洋人の女の顔へとカメラが動く。女は必死な表情をしていた。そして急に笑った。やっぱり映画は見られない。まして車の中では。液晶の下のあたりを盲目滅法に押し続けると突然画面が真っ黒になった。そこには私の顔が映った。

義姉は戻ってきたのだ。彼女は夫と居れば映画を見る暇がないか、見る気にならないのだろう。いや、もしかしたら、兄との別居は彼女に映画を見る必要を生じさせたのかもしれない。そんなことがほんの一瞬、車がスーパーマーケットの前を通り過ぎるぐらいの暇に私の心を煩くした。不在の時間を彼女がどう過ごしていたか、そんな瑣末な欠片を、私はどこに仕舞えば良いのだろう?私は彼らの別居の理由を知らないし、これからも知ることなど無いかも知れないのに。

「時間の無駄使い。」

それは、彼女が半年近く家を留守にしたことだろうか?映画を見ることを言っているのだろうか?緩く口を閉じた私の顔がまた画面に映る。

フロントガラス越しに前を見ると、山はその稜線長く、幾重にもなっていて、遠かった。兄が何を言うのか、と考えると厭に緊張した。私をこんな状況に平気で陥れる義姉のことを恨んだ。義姉の言葉が作った空気の震えが未だ車内に澱んでいて、兄がそれを受け止めて握り締め、収めてやるまで私は息を潜めるしかなかった。侮りだ。義姉は彼女の夫と私を侮っている。嘲っている。試している。

義姉は去年の夏以来半年近く家を留守にした。私が知っているのはそれだけだった。無口に育てられた私たちは、当然そのことについて話さなかった。私は、二人の間に何らかの裏切りがあったのだ、と仮定していた。寧ろ、結論していた。兄が義姉を裏切った。それは、どういうことだろうか?兄が義姉以外の女と関係を結んだ。それが義姉に知れた。義姉が家を出た。それだけの事なのだろうか?突き詰めて行けば、兄がある女に惹かれた、若しくは、ある女が兄に惹かれた。そういう事実に辿り着かなければいけない。そこから先は・・・「惹かれる」という事の中身は、真っ暗で探りようが無かった。私と兄がもし何でも話せる間柄だったとしたら、尚更、真実は冗談めいてそこに中身があることすら忘れられるだろう。

「映画を見ることが、時間の無駄使いなのか?」

兄が尋ねる。義姉が運転席の兄の顔を見た。彼女の小さな鼻だけが、ふんわりと広がった髪の間からのぞいた。

「…そうね。」

わさわさと髪が揺れた。夏の初めの空にはほとんど雲がない。真っ白い日光がウェーブの効いたそれを栗色に透かす。

「じゃあ苺を摘みにいくのは?」

「それは、時間の無駄じゃないわ。だって、私初めて森で苺を見つけてから、ずっと摘みたかったんだもの。そのことばかり考える時があるの。あの時はもうすっかり時期が過ぎて、三つしか見つけられなかったのよ。一度たくさん摘んでしまったらもう、苺のことは考えなくて済むかもしれない。そうでしょう?」

バックミラーの兄は笑っていた。兄が私を鏡の中に見つけてはいけない。とっさに窓の外を見た。私と、兄は良く似ている。人に言われるだけでなく、私たちも知っている。

「こけももは?」

兄が質問を続けた。

「こけもも?」

義姉の声は穏やかなままだ。

「うーん。そうね。こけももね。苺を摘んでからじゃないと分からないわ。」

兄の悪魔的な帰納法の籠には苺だけが残った。義姉は率直な演技を続けた。―私は、裏切りを何とも思ってないわ―

「ねえ、私たちね、山の中のホテルに行った帰りに森で苺を見つけたのよ。お店で売ってるのよりも、ずっと小さくていい匂いがするの。」

義姉は嬉しそうに言った。二年前の夏の終わりだった。二人が買った高原の家を私が初めて訪ねた時だ。彼らの住まいはがらんとしていて、彼女の声は木霊した。生活感に乏しく、大きく、古く、空っぽの家は全存在を賭けて人間に要求をする。整えること、詰めること、飾ること、色を付けること、そういうことを要求する。その時、二人が引っ越して既に数ヶ月は経っていたはずだ。それでも二人は、都会の家で使っていた物を持ち込んだ以外、これと言った手入れをしていなかった。家具は明らかに不足していた。確かに、私がこんな家に住む事になったとすれば・・・と、考えるだけで気が遠くなる。好みやこだわりと向き合うことを余儀なくされ、何よりも体力と時間を要する。「必要があるときに整えていけば良い」、と、思っていたのかもしれない。白い壁紙にやはり白い絨毯を敷き詰めた居間は、広すぎて眩しかった。外に張り出した掃き出し窓のせいだ。高さ3mは優にあるガラスから、過剰に日光が差し込んでいた。私は岸から勢いよく押し放たれた小舟のような寂しさを感じた。手持ち無沙汰でもあった。前の住人が置いていたであろう家具の形がそのまま、日当たりの良い部屋の壁紙に染みとなって残っていた。

義姉が都会のマンションから持ってきたグランドピアノは、彼らの住居の大きい面積を占有していた頃より、遥かに主たる趣で真ん中に鎮座していた。その前に座ると彼女は蓋を開けて鍵盤に眼差しを落とした。グランドピアノの屋根は閉められたままだった。それでも低音から高音まで全ての鍵盤を舐めるようにする試し弾きの音は部屋の空気を低く揺さぶった。ピアノの横に、楽譜やちょっとした本を並べている棚があったが、高さも幅も、その部屋に対しては小さすぎた。丁度二人が持っている紙類を置くのに過不足の無い大きさなのだろう。義姉は座ったまま腕を伸ばして紙束を取ると、寝かせた譜面立ての上に置いた。私は絨毯にペタンと座った。義姉の姿は見えなくなり歌う声が聞こえた。鳥が現れ星が堕ちるという歌。甘えた歌。あざとい歌。そして、まんべんなく恋愛をまぶした歌。分厚い毛糸の靴下を履いただけの義姉の足がペダルを踏む。ペダルは音のリズムとは全くちがうタイミングで踏まれる。強弱を付けない歌声の音程は外れない。音と動きの不思議なズレのせいか、夢を見ているような心地になった。

兄はその頃、都会に割と近いその別荘地の目抜き通りで食料品と雑貨の店を始めていた。近年そこで越冬する別荘族も増えているという話だった。季節に左右されない新しい市場で、輸入品や高級品が売れるだろう、と予想して始めた商売だった。初めての春夏の収益が思ったよりも良く、隣の中華料理店だった場所も借りるか買うかして、更にベーカリーカフェを開店しようとしていた。義姉は夫の商売には全く関わらず、不定期に近隣の催しや結婚式でピアノ演奏の仕事を始めていた。彼女は、都会でも同じ仕事をしていたが、「ここら辺では、ホテルの従業員を送迎するバスが乗せて行ってくれるの。」と、キッチンで食事をしながら嬉しそうに話した。兄は、その日私を駅で拾って家まで送ると一緒に食事をしたのだった。それから仕事に戻った。ということは、ピアノを弾いたのは昼過ぎだ。

窓から外を見る。遠くにあるガードレールに焦点を当てると至極ゆっくり近付いて行くが間近になるとヒュンッと瞬く間に通り過ぎる。同様にたくさんの低い植え込みを次々に逃していく。「あぁ、来た来た。」と、待ち受ける間はのんびりとしているが、通り過ぎる時は瞳に像を結べないほどの速さだ。ガードレールが擦り切れ、緑がぼやける。そういう一人遊びをしながら、私は二年前の事をひとしきり思い出していた。

「お義姉さん、あの歌あるの?」

私は、思わず訊いた。

「なあに?」

「あの、英語の歌。鳥ではじまるの。」

不思議そうな顔をした。

「ああ。あれかしら。あるかもしれない。」

暫く考えた後で、不思議から開放された喜びの表情を見せた。

ダッシュボードの中にはぎっしりとCDが詰まっていた。全部を膝の上に取り出して揃えると、彼女は一枚一枚のジャケットを検め始めた。爪を短くした彼女の小鳥のような手がそれらを裏返し、ハズレの一枚を一番下へ潜らせたりしていた。夫々を一度頭の中で再生するかのように、翼の先がタイトルに触れる。

「あったわ。」

歌うような声を挙げた。たくさんある釦の中からいくつかを押してCDを取り出すと、今度は今しがた見つけた方を再生した。

兄と私は歳が12も離れていて、義姉は更に兄よりもいくつか年上だ。二人が結婚した時は私はまだ15だった。小姑というには若すぎたが、自分に姉が出来たと無邪気に喜ぶにはもう遅かった。とにかく今より私は幼くて、義姉ははにかみ屋だった。二年前のあの日もそうだった。短いピアノの前奏が私をまた二年前に引き戻した。私の髪を切ったばかりの涼しい首元と甘ったるい義姉の声と白い部屋とピアノのくぐもった音と、そして音と奇妙な距離を持ってペダルを踏む彼女の足とは全部が良く似合っているように思えた。思いがけなく、且つ、やわからかく揺らすのは波に似ている。白い鎧戸に当たる日光と風の距離に似ている。所々に光沢のある緑に当たった太陽に反射された光線が揺れて、まだらを作る。まだらは風で揺れる。甘く語りかける歌が流れる。

「こんな古い曲良く知ってるわね。」

右の人差し指を指揮者のように左右に振りながら言った。彼女はその曲を歌って聞かせたことを忘れている。

「『英語の歌。鳥で始まるの』で良く分かったな。」

兄が私の声色を真似る。バックミラーの中で義姉はその生来腫れぼったい目を力いっぱい開いて答えた。

「だって、私が大好きな曲なんだもの。バート・バカラックは全部好き。」

転調する。その英語の歌詞は、至ってあどけない。いや寧ろ、この曲の恋の朗らかさはあざとさ以外ではない。

「あなたもこの曲好きなの?」

義姉が首をのけぞらせて、こちらに合図を送ってきた。

「お義姉さんが昔ピアノを弾きながら歌ってくれたでしょう。引越しをしたばかりの頃に。」

「そうだったかしら?」

「そうよ。その時から、不思議な曲だと思ってたの。だって、こんなにつまらなくていやらしい歌詞なのに、歌ってくれた時はそれを忘れてたわ。でも、思い出してみるとやっぱり・・・。」

義姉は前を向くと首をかしげて

「そんなに歌詞が厭なの?」

と、聞いてきた。彼女が「英語が得意でないから、外国人にリクエストをされる時には、いつも怖くなる。」と言っていたことを私は思い出した。彼女はただ聞いたように歌うのだろうか。オウムが人の言葉を覚えるように。

「そうよ。幼さを装ったような嫌らしい歌詞よ。小さい女の子が書いたとでも思えば救いようはあるけど。でも、この歌って、不思議ね。何度でも聴きたいし、歌ってみようかな、という気にもなるし。」

「そうよ。いい歌なのよ。」

未だに不思議そうに眉を寄せる義姉の顔がミラーに映る。少し開けた窓から入り込む風が強く彼女の髪から、洗髪剤の匂いを運んでくる。

「ねえ。」

義姉がミラー越しに私に微笑む。歌は何度も同じフレーズを繰り返し、曲の終わりに差し掛かったことを知らせていた。

「『あなた』ね。」

まるで私の秘密の悪戯を咎めるように義姉が言った。冷やりと反応する部分が心にあった。

「え?」

驚く私の顔を見て、彼女は堰を切ったように笑った。

「違うわよ。あなたのことを言ってるんじゃないの。『you 』っていうのを男の人だと思ってるんじゃないの?って、思って・・。」

刹那に涼しい風にスカートを吹き上げられたような心持になった。私はむっとして、黙っていた。うつむいた途端、数ヶ月の義姉の不在が再び私に寄りかかってきた。勝手な追憶の道程で、知らず知らずに「裏切りの兆し」、を見つけ出そうとしていたのだ。「you 」は、男というよりは、寧ろ兄だった。私と似ている兄の姿形を当てはめて歌われる切ないメロディーは咽る程厭らしく思われる。

私は、彼女の不在中一度だけ兄を訪ねたことがあった。夏は未だ枯れず、蝉の声と家のすぐ南を流れる川の轟が開け放した窓々からなだれ込んでいた。兄はただ憔悴していた。彼は見るからに痩せていたし、キッチンの流しには長い間放っておかれた水垢が結晶していた。部屋は義姉が居たときよりもよっぽど綺麗に片付いて寒々しい風景を見せていた。居間では、義姉が残して行ったピアノが愈々その楽器の意匠を誇って鎮座していた。御者を失ったそれは、鍵盤の役割、開閉が出来る屋根の利便性、艶やかに塗られたその色の表わす物、アンシンメトリーであることの意義、そう言う事を訴えているようだった。空々しいと言うよりは寧ろ、溌剌と季節を謳歌してるように思えた。放たれて野生に戻った馬が、調教されていた頃には見せなかった力強さを見せるように。その時私は、不在の義姉に隠されていた生命力を発見した。彼女は、都会にいた時から、生活の動的な部分―つまり、車を運転したり、旅行を計画したり、安定した収入を得たり、出入りの業者に連絡を取ったり―の殆どを、夫に任せていた。それは、滅多に会わない私にさえ明らかな程だった。ピアノで得る収入は、恐らく生計を立てて行くには少なすぎる。兄には驕慢があった。

「例えば、苺とか?」

兄が正面を見たまま掠れた声を出した。義姉が頷く。また風が吹く。記憶を手繰り寄せていた私は、一体どんな顔をしていたのだろう。もう一瞬前のことが思い出せない。曲はいつの間にか終わって次の歌が始まっていた。

「そうよ。苺よ。」

義姉は彼女の夫を見上げて、嬉しそうな声を挙げた。兄の頬にキスをしても可笑しくない程、はしゃいだ声だった。兄は、応えるように一瞬彼女の方を見遣った。

「苺の傍にいるときにはきっと、鳥たちが突然姿を現す。あの子達も苺の近くに居たかろう。」

兄が字余りの歌詞を無理やりねじ込んで歌った。苺の登場が頃の悪さとは裏腹に歌を収まりがいいものにしてしまったので、皆笑うしかなかった。「彼女は苺を探しに行っていたんだ」という明るい幻にしばし取り替えることもできるような気がした。知ることと、知らないでいることにそう違いは無い。二人の間の蟠《》《わだかま》りなど、知ろうと、知るまいと在れば在り、無ければ無い。私の拘りが、二人の秘密の陣地の大きさを測ろうとしているだけだ。弾かれる所まで、近づこうとしているだけなのだ。有刺鉄線の張られた繊細な領域があると思い込んでいるのも、私だけで、踏み込めば彼らは核心まで招き入れるかもしれない。その時には、やはり、私はそれを見ようとはしないだろう。私には何も禁じられていなかった。

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