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こだま

近頃私たちの周りでは、「伝わった」「響いた」「こだまが返ってきた」という感覚があまりにも乏しくなっている。


「伝わらない」もどかしさは、カズオ・イシグロの小説が現実にも起こっているようで薄寒い。

人間も地球上の生き物も、あちこちでブツブツ切れて断絶している。素でいられるはずの家であっても、SNSとかオンラインなんかに追われて、ダラダラしてるのに、顔だけは取り繕わなきゃいけないんじゃないかという強迫観念に迫られている。


結果「還るところ」はどこにも無くなってしまった。自分に対してさえ仮面をかぶってしまえば、「素」がどんなだったかも分からなくなってしまう。


最近のリラックス信仰の背景には、こんな理由もありそうだ。リラックスしても全然休まった感じがしないなら、自ら仮面を外すことができなくなっている違和感が刺さっているのではないか。



翻って人間関係は、森の中にいれば、もしくは自然を実感できるような場所であれば、多様な関係性の中の一部に過ぎず、夫婦喧嘩したところで、何ら大きな問題にはならないのだろう。


ミスコミュニケーションの問題は、結局自分の内外両面の問題だ。コンクリートジャングルの中で、人間関係だけにフォーカスしても何も進まない。

例えば、目をもっと奥の自分に向け続けていると、逆に外側と繋がるのではないか。
ただしその時の「外側」には、自然の秩序がしっかり構築されていないと、「共感」の緒はいつまで経っても見つからない。

そういう意味では、内と外、両方の有機的な立体感がなくては、共感の環は生まれない。


外は土砂降りの雨。
「雨宿り屋があったらいいな」
と末っ子。
少し雨足が弱まると、今度は蛙の声。
「あんな声は人間には出せないよね」


土曜日の朝、こういう会話だけがホッとできる。今ならまだ間に合うような気がする。

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