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こんにちは!

なりきり要約です。

今回は、池上彰さん著の「戦後を知るための12人」というタイトルの本について記事をアップしていきたいと思います!

12人の名に連ねられているのは、
田中角栄
江副浩正
小泉純一郎
中内功
渡辺恒雄
堤清二
村上世彰
堀江貴文
石原慎太郎
池田大作
上皇陛下
上皇后・美智子様

以上のラインナップになります。

1.田中角栄

かつては「首相の犯罪」によって糾弾され、政界を追われたはずの田中角栄。
コンピューター付ブルドーザー」と呼ばれたほど、経済に関する数字に強く、行動力がありました。
『日本列島改造論』を著し、高速道路と高速鉄道で全国をつなぎ、均衡ある日本列島の建設を目指した。
しかし、その結果は、自然破壊と狂乱物価を伴いました。

ただ、その田中角栄が今、「不世出の政治家」「天才」と見直されています。
恵まれない境遇からのし上がり、ずば抜けた人心掌握を身につけた彼が成した「功」と「罪」を本書では振り返っています。

田中角栄 1918年 新潟県生まれ
貧しい農家の7人兄妹のなかでただ一人の男児として育つ。
最終学歴はニ田高等小学校。
田中土建工業を経営していたが、同社顧問の政治家に乞われ、47年に衆議院議員に初当選。
以降閣僚や自民党幹部を歴任し72年には首相となる。
日中交回復などの成果もなし挙げたが「田中金派問題」を契機に74年に退陣。
93年没。

2.江副浩正

「日本株式の人事部」を自認するリクルート。就職活動でお世話になる人は今も多いでしょう。
”情報を売る”という
斬新なビジネスを生み、大成功した江副浩正は、どこで足を踏み外すことになってしまったのか・・・
萌芽は彼の「贈り物好き」でした。
最初のうちはみんなの意見を聞ける存在だったのに、いつしか、とてつもない独裁者になっていた人。そんな江副浩正という人物を本書で振り返ります。

江副浩正(えぞえひろまさ) 株式会社リクルート創業者
1936年、愛媛県生まれ。
甲南中学校・高校から東京大学に進学し、東京大学新聞社で企業への営業を身に付ける。大学新聞広告社を設立し、新卒への就職ガイドブックを発行して成功。社名の変更の後も不動産や旅行など様々なジャンルで”広告だけの雑誌”を出す。88年に「リクルート事件」が発覚し、有罪判決を受ける。
2013年没。

3.小泉純一郎

「自民党をぶっ壊す!」

「わたしに反対する全て抵抗勢力」

キャッチーなワンフレーズで大衆の支持を掴んで離さなかった小泉純一郎という”変人”政治家。

「自民党をぶっ壊す」というフレーズで一躍有名になりましたが、別に本当に自民党を「ぶっ壊す」つもりだったのではありません。「自分の改革を自民党が邪魔するのなら」という前段の文章があったのです。

様々な改革を成し遂げましたが、現在、多くの人を苦しめる状況を生んでしまったこともまた確かです。
小泉内閣は郵政民営化を実現しました。ところが、ここへ来て「かんぽ生命」の強引な勧誘が大きな問題になりました。金儲け至上主義に走り、これまで郵便局を支えてきた多くの人たちを裏切ったのです。小泉内閣の歴史的責任が問われます。

小泉純一郎 1942年、神奈川県生まれ
祖父の代から政治家の家系。
慶応大学卒業後、英語留学を経て福田赳夫の秘書に。72年に初当選し、大蔵族の道を歩む。
2001年に首相就任。官邸主導の政治を牽引し、郵政民営化などを実現。06年に首相を退任、08年に政界を引退後は反原発を訴える。

4.中内 功

今、私たちが多くの商品を定価より安く買うことができるのは、中内功のおかげかもしれません。
安売りのためなら、大手メーカーと戦うことも辞さなかった
カリスマ経営者の彼とダイエーが、最終的に経営破綻に陥った理由はなんななのか?

ダイエーは理想を掲げ、安売りによって人々の暮らしを豊かにしたのは事実です。でも、今や、すき焼きを腹いっぱい食べるとコレステロールが気になる時代になっている。そこのところを中内さんは読み誤った。本当なら、周りの部下たちが「社長、時代は変わっているんですよ」と言わなくてはいけなかったのに、カリスマに怖気づいて言えなかった。トップに物申すことのできない会社は滅びの道を進んでいく──。

中内功 なかうちいさお ダイエー創業者
1922年、大阪府生まれ
従軍経験から「物質的豊かさ」の重要性を痛感。
復員後は実家の薬局を手伝い、57年に「主婦の店・ダイエー薬局」を開店、食料品も販売するように。値付けを巡ってメーカーと長く戦った。
スーパー以外にも事業を拡大し、88年にはプロ野球球団も獲得。バブル崩壊からは経営が低迷し2001年に会長職を退く。05年没。

5.渡邉恒雄

「生涯、ジャーナリストでいたい」と語りながら、明らかに新聞記者を超えた活動をしてきた渡邉恒雄。政界ではフィクサーとして暗躍し、球界では我が意を通し続ける。彼はいかにしてこれほどの権力を握るに至ったのでしょうか?
渡邊さんはトップに上り詰めても「生涯、俺は新聞記者だ」と言い続けています。
政治家に徹底的に食い込んで信頼を勝ち取り、もろもろの相談を受ける。
政治家と政治家を引き会わせてその密会を記事にする。
自分で特ダネを作り上げることができるようになるわけです。


渡邉恒雄 わたなべつねお 読売新聞主筆
1926年、東京都生まれ。
東京帝国大学在学中に共産党員になるも離党。読売新聞社に入社し、正力松太郎に見出されて大野伴睦の番記者になってから保守政界と繋がりを持つ。
大野の死後は中曽根康弘と懇意になり、2007年の大連立構想も主導。91年に社長、96年に巨人軍オーナー(現最高顧問)に就任と、読売グループの頂点に上りつめる。

6.堤清二

80年代、バブル期にセゾングループは独自の文化を発信、人々を魅了し一時代を築きました。
同グループを経営したのが「詩人経営者」と呼ばれた堤清二です。
複雑な生い立ちを持つ彼の、”自己否定”を繰り返した足跡を辿っています。

堤清二という経営者がいかに優れていたか。その優れていた理由は、「自己否定」に求めることができると思います。
西武鉄道の沿線に次々と西友ストアーを作っていきました。しかも西武鉄道のターミナル駅・池袋には西武百貨店がちゃんとあるにもかかわらず、西友ストアーをわざわざ作るのは自己否定だったと言えます。

堤清二 つつみせいじ 元セゾングループ代表
1927年東京府生まれ。
東京大学を卒業し、肺結核の療養後、西武グループ創始者の父・康次郎の秘書に。64年の父死後、同グループの総師を異母弟・義明に譲り、自身は小売を担当。「感性経営」でパルコや無印良品などを成功させた。
バブル崩壊で経営が破綻し、91年に代表を辞任。作家・辻井喬としても活動をした。2013年没。

7.村上世彰と堀江貴文

90年代末に到来した ”ITバブル” そこで急成長したライブドアがテレビ局という旧メディアを買収しようとした時に起きたことはなんだったのか?
時代の寵児と呼ばれた二人が実刑判決を受けた理由を考える。
村上世彰と堀江貴文というのは、ひとことでいうなら「平成の風雲児」
目立ちすぎた結果、秩序の破壊者とみなされた2人への追及は、ライブドアの「粉飾決算」と村上ファンドの「インサイダー取引」でした。
出る杭は打たれるといった日本の悪しき習慣としてもいまでも物議を醸される逮捕劇となりました。

むらかみよしあき 投資家。1959年、大阪府生まれ。
東大法学部から通商産業省に入省。40歳前に退職しファンドを立ち上げる。「ものいう株主」として活躍するも、2006年にニッポン放送株式のインサイダー取引で逮捕され、有罪判決を受ける。
現在シンガポール在住

ほりえたかふみ 元ライブドアCEO。1972年、福岡県生まれ。
東大在学中にホームページ制作会社を設立。同社を短期間で急成長させるも、2006年に証券取引法違反で上場廃止に。堀江も翌年に2年6ヶ月の実刑判決を受ける。現在、宇宙ロケット開発に精力を傾ける。


8.石原慎太郎

気鋭の作家かつ国民的スターの兄。
それが石原慎太郎の出発点です。
以降 ”弟の七光” を最大限に利用して政治家転身、そして問題発言を繰り返しつつ、長く都知事の座にいました。
思いつきで行動し、すぐ止める。
石原慎太郎を知る人はみな、天真爛漫でいい人、という印象を受けるようです。
意識過剰ではなく無意識過剰。自覚しないまま、何でも口にしてしまう。それがさまざまな差別発言を引き起こすことにもなります。
右派的な行動を取ることにより、日本国内にある種の保守の潮流を作り出した点で、彼は大きな業績を残したといえます。
国全体を動かす環境政策を成しとげた点で実績もまたあるということです。

いしはらしんたろう 政治家、作家。1932年、兵庫県生まれ。
一橋大学在学中に「太陽の季節」で芥川賞受賞。
弟・裕次郎とともに注目を浴びる。68年に参院選に出馬し初当選。その後、衆院に鞍替え、反共の「青嵐会」を結成、自民党総裁選での敗北などを経て99年に東京都知事に。2012年、国政に復帰するが14年、政界引退。17年には築地市場移転の責任が問われた。

9.池田大作と創価学会

巨大な宗教団体であり、政権政党の支持母体でもある創価学会に長く君臨する池田大作。同会と日蓮正宗との関係、そしてなぜこれほど勢力を伸ばせたのか。彼の「理想」と現実の齟齬とは。
1964年に池田大作会長が政界進出の動きを加速。公明党という政党が結成されることになる。
小選挙区制度で選挙活動をするうえで、もはや学会・公明党の組織力なしには自民党候補は当選できないのが実情です。

現在、創価学会は世界宗教として拡大しようとしていて日本以外でも世界百九十一カ国・地域に二百二十万人の信者がいると発表されています。
ただし、中国大陸には信者がいません。というのも、中国共産党との間で「中国大陸では布教活動をしない」と約束をしているからです。
その代わり、創価学会は中国共産党と友好関係を結び、さまざまな発言権を確保しています。
創価学会は日中関係の今後を左右する重要なポジションにあるといえます。

いけだだいさく 創価学会名誉会長。1928年、東京府生まれ。
19歳の時、創価学会に入信。出版社の編集や信用組合などで働いていたが、学内で昇進して53代会長に。64年に公明党結成。65年から「人間革命」の連載を開始する。91年、日蓮正宗が創価学会を破門。2010年以降、公の場には姿を現していない。

10.上皇陛下と上皇后・美智子さま

2019年になされた譲位は、崩御にともなわないため明るく、新元号ともども大歓迎されました。
しかし、被災地を熱心に訪問されたお二人は、「国民に慕われていた」と今でこそ振り返られますが、かつては様々なマスコミからひどいバッシングを受けていたのです。
なぜ二人は「毀誉褒貶」あると表現されたのか。
お二人は、日本国憲法のもとで天皇に即位した初めての天皇として、憲法が規定する「国民統合の象徴」とは何かを常に考えて来られました。
これが「戦後に挑んだ」ことになりますし、その姿勢を面白く思わず、陰に陽に批判してきた勢力があったからです。

本書では、お二人が歩まれてきた道を辿ることで、平成とはどんな時代だったのかを振り返っています。

明仁上皇(あきひとじょうこう)1933年、東京府生まれ。
59年に正田美智子さんと結婚し、60年に第一子の徳仁親王を儲ける。89年、父の崩御により代125代天皇に即位。以降、被災地などを精力的に訪問。2016年に生前譲位の意向を示され、19年に退位した。

美智子上皇后(みちこじょうこうごう)1934年、東京府生まれ。
明治以降初の民間出身の皇后であり、結婚時には「ミッチーブーム」が巻き起こった。週刊誌等によるバッシングは散発的に起き、90年代には失声症になった。呼称「上皇后」は日本史上初めて使われるもの。

まとめ

日本の戦後を知るための人物たちについて書かせていただきました。
重たい人物というか重量感のある偉人達が紹介されている本書となっていました。
本書では、この重量感ある人物をわかりやすく解説しており、また池上彰先生の視点をもって紹介されていることに面白みを感じながら読むことできる内容でした。

12人には、さまざまな活躍があって光がありそしてまた闇もあることを学びました。
そんな世の中を大きく変えてきた人物たちは、たくさんの毀誉褒貶があり、一時代を築いたかと思えば、変化する時代の波に飲まれ、自分の成功体験から皮肉にも時代を読み違えてしまう時代の寵児と呼ばれた人たちもいる。

どんな成功を収めても、どんなに画期的なビジネスを成し得たとしても、成功の近くすぐそこに落とし穴や時代の波といったものが待ち構えているのかもしれないと感じさせられました。


終わり

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