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古典的保守主義(Classical Conservatism)とは何か

 ここでわざわざ「古典的保守主義(Classical Conservatism)」という言葉を出したのは、どうも今の日本において「新保守主義=保守」という用例が少なくないからです。後述しますが、実は日本のネトウヨも新保守主義者なのです。

 新保守主義(Neoconservatism)とは、典型的なのがアメリカのネオコンで、本来保守主義を否定していた「広義のリベラル」の思想家であるハイエクの新自由主義の影響を強く受けた自称保守のことを指します。

 「新」があるならば当然「古」もあります。しかし、CiNiiで検索しても「新保守主義」について論じた文献は多くても「古典的保守主義」について論じた文献は驚くほど少ないのです。

 アカデミックで論じていないのであれば、ネトウヨが関心を持つはずもありません。Wikipedia日本語版にも「新保守主義」のページはあっても「古典的保守主義」のページはありません。(「伝統保守主義」のページが比較的近いが、内容が無さ過ぎる。)

 というわけで、今回は私が「古典的保守主義」について簡単に説明させていただこうと思います。

「古典的保守主義」とは?

 古典的保守主義とは何か?それは、昔ながらの保守主義です。

 ・・・と、いう感じで終わっちゃうと「それぐらい誰でも判るわ!」と言われそうですが、そもそも「保守」って「古典」的なものなので、「古典的保守主義」と言うのは「古い保守主義」と言うよりも「純粋な保守主義」っていうニュアンスのある言葉です。

 要するに、今の時代に広まっている「新保守主義」が不純である、という立場から「古典的保守主義」という用語が用いられているんですよね。

 無論、保守主義自体に否定的な立場からは、文字通り「古い保守主義」という意味でも使われます。例えば、元唯物論研究会委員長の渡辺憲正教授は

初期の古典的保守主義は,旧政治体制の支配者層を基盤として,反近代主義を標榜して現れた。このことは保守主義を考察する場合に看過されてはならない。ただし,それに続く近代保守主義が古典的保守主義の性格を貫けるかどうか。これはまた別の問題である。(渡辺憲正2009年「現代保守主義とネイション」『関東学院大学経済経営研究所年報』)

と言う感じで、もう近代以降は貫けていない、前近代の支配者層に支持されたのが古典的保守主義だ、としています。これが「反保守」というか「左翼」側の評価なのでしょう。

 テキサス州立ダラス大学の公式サイトにある「Classical Conservatismの解説文では、もう少し広い意味でこの用語が説明されています。

全ての人々が属する自然な社会秩序が存在するのであり、社会は混乱するような試みをしてはならない。少しの統治に適した人々が存在し、そうではない多くの人が存在する。古典的保守主義はそのような反無政治的エリート主義者(unapologetically elitist)である。(ダラス大学のサイト

 「反無政治的エリート主義」という言葉は、より通じやすい日本語にすると「反ノンポリのエリート主義」と言ったところでしょうか。いずれにせよ、「unapologetically elitist」に該当する日本語は自動翻訳でも出てきません。

保守主義と自由主義や社会主義の違い

 また、次のようにも解説します。

古典的保守主義は、​​社会の正当な地位から退くことを求める人々に対して敵対的であるが、国家はその最も弱いメンバーの世話をする責任があると考えている。封建時代には、この原則はノブレスオブリージュの考えによって捉えられた。(同上)

 つまり、「弱者切り捨て」に反対する点で自由主義とは異なるし、自由主義の亜種である新保守主義とも異なる、と言うことですね。

 自民党や維新の会は一見「保守」を掲げながらも、実際には新自由主義敵な政策を推進しています。これは「新保守主義」であって「古典的保守主義」とは、別物です。

 同時に、社会主義は「平等」を重視しますが、保守主義で唱えられる「社会は混乱するような試みをしてはならない」と言う内容には同意しません。場合によっては「革命」を行うことも辞さないのが、社会主義です。

 なお、「社会は混乱するような試みをしてはならない」と言うのは、自由主義との違いでもありますね。自由主義の考えでは「混乱するかも、自己責任」ですから。

 自由主義の政策としては、「配偶者控除廃止」や「戸籍婚における選択的夫婦別氏」があります。これは、いわゆるリベラル派から維新の会のような新自由主義者まで、共通している政策です。「家庭を守る」かどうかの価値判断を避けて「個人の自由」を尊重する、その結果「家庭解体」となってもかまわない、というのが自由主義であり、保守主義とは大いに異なるわけです。

古典的保守主義の祖はモンテスキュー

 保守主義の父とされるのがエドマンド・バークですが、そのバークが「この時代を啓発した最も偉大な天才」と評価したのが、シャルル・ド・モンテスキューです(高橋和則「エドマンド・バークの政治思想」)。

 つまり、古典的保守主義はモンテスキューに始まります。『法の精神』も古典的保守主義を理論づけた著作です。

 「権力分立」や「法の支配」と言うと、今では「民主主義」と関連付けて理解されることが多いですが、三権分立を提唱したモンテスキューは寧ろ民主主義を否定していました。

 モンテスキューが理想としたのは、あくまでも「君主政体」です。

 君主政体は、すべての物体をたえず中心から遠ざける力とそれらを中心へ連れ戻す重力とが存在する宇宙の体系のようなものであると言えよう。名誉は政治体のあらゆる部分を運動させ、その作用自体によってそれらを統合する。そして、各人はそれぞれみずからの個人的利益に向かっていると信じながら、共同の善に向かっているといったことが生ずるのである。(モンテスキュー『法の精神』岩波文庫80頁)

 日本でも古典的保守主義の論者が天皇陛下を崇敬するのは、こういう流れがあるからです。なお、モンテスキューが権力分立を唱えたことでも判るように、君主の尊重と権力分立は両立します。

 むしろ古典的保守主義の立場からは(仮に民意を得ていても)独裁は否定されるので、近年の安倍政権のような、陛下をもないがしろにする政治は明確に否定されることになります。

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