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建国記念の日(紀元節)と日本の成立

 今日は建国記念の日(紀元節)です。昨年はこんな記事を書いていました。

 日本は神武天皇が建国されたことになっていますし、私は神武天皇実在説です

 もっとも、実際には『古事記』では神武天皇では無く崇神天皇がハツクニシラス天皇と記されており、『日本書紀』では神武天皇も一応ハツクニシラス天皇と記されてはいますが、崇神天皇の「クニ」が「國」なのに対して神武天皇の「クニ」は「天下」となっています。

 つまり、神武天皇の頃はまだ日本は「理念」の段階で国家としての実態を有しておらず、崇神天皇の御代になってようやく「国家」としての体裁を整えられたのであると考えられます。神武天皇は弥生時代中期頃に九州から大和へと東征したばかりですから、まだ国家としての実態を整えることなどできなかったのでしょう。

 崇神天皇の御代には纏向遺跡のような比較的大規模な宮殿も発見されており、『古事記』『日本書紀』によると景行天皇の御代まで今の纏向遺跡の周辺に宮殿があったようです。

 が、その頃の国も今の日本のような統一国家ではなく、いわゆる九州王朝(邪馬台国、邪馬壱国)に劣後する勢力であったと考えられます。そもそも神武天皇自身が九州から来ましたから、当時の我が国は九州王朝の分家のような勢力であったと考えるのが妥当でしょう。

 実際、『古事記』『日本書紀』には景行天皇の子供である倭建命が九州の支配者である熊襲建を暗殺した話が載っており、「ヤマトタケルが女装してクマソタケルを殺した!」という印象的な場面でこのことをご存知の方も少なくは無いでしょうが、相手の王様を一人(『古事記』では兄弟二人。『魏志』「倭人伝」の記述からも、当時の九州王朝は兄弟統治であったと思われる。)殺したところで、九州の人たちが従うはずがありません。むしろ「暗殺なんて卑怯な真似をしやがって!」と怒るのが普通でしょう。

 事実、『古事記』『日本書紀』によると倭建命の子供である仲哀天皇の御代に再び熊襲征伐を行っています。つまり、倭建命は九州を平定できていなかったのです。

 そして、『日本書紀』の「一伝」によると仲哀天皇は戦死した、とあります。九州王朝は大和の本家であるだけでなく、軍事力でも圧倒していた訳ですね。

 『古事記』だとさらに露骨です。仲哀天皇は神様に殺されたことになっています。

 後世の日本では天皇陛下が神様の上位に立っている訳で、今の日本でもお稲荷さんに「正一位」の位階が与えられていますが、正一位は天皇陛下の臣下に与えられるくらいですから、お稲荷さんのような神様よりも天皇陛下の方が偉い、と言うのが日本の考え方です。しかし、仲哀天皇の御代では天皇陛下は神様に殺されていた、つまり天皇陛下も絶対では無かった訳ですね。

 では天皇陛下が「神様よりもエライ」というような絶対的な権威をもつようになったのはいつか、と言うと、大宝元年(西暦701年、皇暦1361年)になって律令国家が成立してからです。この時に天皇が「皇帝」であると明確に位置付けられ、年号も途切れず制定されるようになり、いわば日本は「帝国」としての体裁を整えるようになったわけです。

 そうだとすると日本が今の形なったのは大宝元年以降と言うことになりますが、大宝元年以前に神武天皇の頃から日本の理念があった、と言うことで神武天皇が大和(の一部)を平定した年の元旦を建国記念の日(紀元節)と言うことにしました。

 「え?建国記念の日って、元旦だったの?」という方、そうです。無論、キリのいい日を選んだと言うのもあるでしょうが、神武天皇は元旦に即位されました。

 だから旧暦のお正月、つまり春節を紀元節にしても良いと思いますし(笑)、南出喜久治先生みたいに立春を紀元節にするべきと言う意見もありますが、それは置いておきます。

 さて、神武天皇が日本を建国した時の理念を「八紘為宇」と言います。

 これは簡単に言うと「世界を一つの家族にしよう!」と言うものであり、この家族国家の理念こそが、日本の理念なのです。

 なんか、今の日本では世界どころか、同胞同士でも特に政治家は冷たい態度をとっている気がしますが。

 公式サイトの記事にも書きましたが、内密出産法制化を巡っての政府の冷たい態度など、本当に酷いものです。

 日本建国の本当の理想を実現させたいものです。



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