保守思想家の「女性観」は本当に家父長制擁護なのか――平塚雷鳥に影響を与えた「宗教右翼」谷口雅春の例
左翼勢力が「保守派=家父長制」のレッテルを貼ることは、古くはエンゲルスの時代から行われていたことであるが、具体的にどの保守思想家が家父長制を積極的に擁護したのかというと、多くの場合具体的な名前は貼られていない。せいぜい自民党や日本会議の関係者の発言が紹介される程度であるが、自民党や日本会議が保守かどうかには議論のあるところであり、彼らの発言を持って「保守派=家父長制」というレッテルを貼るのは、「平壌政府」(自称「朝鮮民主主義人民共和国」)の例を出して「社会主義=世襲制」のレッテルを貼るのと同じぐらい、恣意的な情報操作である。
保守派の女性観を考える上では、まず「誰もが保守派と認める人間」を基準に考察する必要がある。金正恩が社会主義者かどうかには学界でも政界でも異論が大きいため、社会主義者代表として金正恩は使えない。同様の理由で、自民党や日本会議を保守派代表としては使えないのである。
光明思想家の谷口雅春先生は、私のような反日本会議、反自民党の保守派からも、「日本会議=保守」との認識を持っている者からも、いわゆる保守思想家の一人であることは疑いようのない人物である。さらに、家庭問題や女性問題について、日常生活から憲法問題に至るまで様々な著書で言及している。谷口雅春先生の家庭観・女性観を分析することは、自民党や日本会議の人間の言動を分析するよりも、より保守思想における女性の位置づけを正確に把握することになると考える。
戦後の保守運動に大きな影響を与えた谷口雅春先生
谷口雅春先生はアメリカの哲学者であるラルフ・ワルド・エマーソンの影響を受けた光明思想家である。
エマーソンはアメリカのキリスト教教条主義者にもリベラル派にもどちらにも多大な影響を与えたが、その思想自体は保守主義の一種である。ただ、哲学者としての彼は、元々キリスト教の牧師でありながら、キリスト教以外の宗教であるインド哲学やイスラム教のことも積極的に評価していた。
この、特定の宗教ではなくあらゆる宗教を評価する万教帰一の考えは、キリスト教の信者の少ない日本の保守派にとって受け入れやすいものであったともいえる。しかし、エマーソン流の万教帰一論は戦前の日本においては弾圧の対象であり、谷口雅春先生も戦前は『国体の本義』を批判したり「海ゆかば」反対運動を行ったりしたため弾圧を受けることがあった。
だが、戦後になると国家による思想統制・宗教統制が撤廃されたことにより、皮肉にも左傾化が進む戦後社会において保守派の谷口雅春先生の思想が広まる環境が整った。
戦時中大政翼賛会に抵抗していた鳩山一郎は、戦後になると谷口雅春先生に急接近した。二人は共に共著を出版し、鳩山一郎は自由民主党の初代総裁となり、谷口雅春先生も鳩山の政治を全面的に支持した。戦前・戦時中に国家権力の弾圧を受けていた側が、戦後一転して保守派の主流となったのである。
鳩山一郎の政権は長くは続かなかったが、谷口雅春先生の唱えた「元号法制化」等の政策は自民党にも受け入れられ、次々と実現していた。
しかし、谷口雅春先生の政治活動の根幹であった「生命尊重」「反優生思想」は、日本医師会を主要な支持母体とする自民党に受け入れられることは無かった。昭和53年(西暦1978年、皇暦2638年)に谷口雅春は政治活動の一線を退き、これが平成28年(西暦2016年、皇暦2676年)に始まる生長の家と自民党の全面対立の遠因となる。
平塚雷鳥(明子)と谷口雅春先生の関係
谷口雅春先生の生命尊重運動は、「中絶は女性の権利」「水子供養は女性差別」と言って保守派を攻撃するフェミニズム勢力からは、激しい批判の対象となった。その背景には谷口雅春先生と対立していた医療利権複合体の影があったことは言うまでもない。
一方、女性解放運動を推進していた平塚雷鳥が谷口雅春先生と親しかったことは、平塚雷鳥の研究者の間では著名である。NPO法人平塚らいてうの会会長の米田佐代子氏のブログにはこうある。
らいてうが、自らの宗教的宇宙観により大本教に関心を持ったことは知られていますが、生長の家についても初代教祖谷口雅春と親しく、1936年に「『生長の家』の谷口雅春氏が常に万教帰一を説き(中略)我が意を得たりと喜んでいました」と書いています。それはらいてうにとっては「我が国の宗教者が、ようやく過去の狭隘な宗派的因襲から解放され、いっさいの宗教に帰通する、その本質、真髄に徹することによって、唯一絶対の生命の真理に帰入し、和協統一せられるものであることに気づいてきたことを思わせる」という趣旨だったのです。
谷口雅春先生の主著である『生命の実相』頭注版第26巻「教育実践篇下」の第四章「宗教教育をいかに施すか」という座談会形式の一篇にも、平塚明子の名前で平塚雷鳥が登場している。(平塚雷鳥の本名は平塚明で、明子はペンネームの一つ。)
そこで、宗教とは何かと思うのか、との谷口雅春先生の問いに対して、平塚雷鳥はこう答えている。
平塚――言い方によって言葉はさまざまにどうでもいいだとうと思いますが、ただ神とともにあるそれが宗教だ、そういう言葉を使いませんでも、体験的自覚として、いろいろ「個々のもの」が、「渾てのもの」と一つに融合(とけ)たといいますか、「個」というものと「全体」というものが一つになって、一つの中に「全体」がありまた全体の中に「個」というものもあるというふうな、その意識といいますか。
谷口――なるほど……
平塚――結局、それは神とともにある、といっても異存はございませんけれども、ただ「個」と「全体」とが……
谷口――神という名前をつけなくても、生命でもよし、大生命でもよし、あるいは、仏性でもよしですか。
平塚――なんといっても、すべてのものが一つに帰したという意識でございますが。
谷口――大調和の渾然とすべてのものが一つであるという自覚がこれが宗教といわれるのでしょう。
平塚――そうおっしゃっても結構だと思います。いろいろ言い方がございますが、どの言葉を選んでも異存はないのでございます。結局そういうふうに自分が得た体験が宗教だと思っております。
(谷口雅春『生命の実相』「頭注版 第26巻」114~115頁)
この座談会は戦前に行われたものであり、当時は谷口雅春先生も平塚雷鳥もどちらも権力に弾圧される側としての連帯意識もあったのであろうが、平塚雷鳥が思想的にエマーソンや谷口雅春先生の光明思想に近かったのも事実である。しかしながら米田氏のブログにもある通り、戦後フェミニズム活動家として活躍していく平塚雷鳥は、この保守派とも親交を深めていく姿勢が「保守反動」であるとして他のフェミニストから批判される理由となっている。
『日本国憲法』第24条を巡る矛盾した評価
谷口雅春先生を家父長制の擁護者扱いしたのは、専らその生命尊重運動が邪魔であった生命軽視勢力である医療利権複合体による印象操作であると言えるが、谷口雅春先生の言動自体にそうと誤解させる言葉もあったことは事実である。
古典的保守主義の代表的な論客である谷口雅春先生は帝国憲法復原・改正論者であったが、特に『日本国憲法』第24条を「離婚増加の原因」であると批判していた。『日本国憲法』第24条の内容は「個人の尊厳と両性の本質的平等」であり、それだけを見ると谷口雅春先生がこの両者を否定して家父長制を擁護しているという批判にも一定の説得力があった。
しかし、本当に谷口雅春先生が家父長制を支持していたのであれば、彼の思想がむしろ女性の間で広まっていったことが説明できないであろう。実は、谷口雅春先生と親交を深めた女性解放運動家は平塚雷鳥だけが例外ではない。
生長の家の女性組織である白鳩会は、元社会大衆党党員で戦後は日本婦人有権者同盟(会長・市川房枝)の結成にも携わった女性解放運動家の平岡初枝が副会長であった。生長の家の信者は「男性1割、女性9割」と言われるほど、有意に女性の信者が多い状況であり、その中には戦前の女性解放運動の流れも存在したのである。
『日本国憲法』第24条についても、実は谷口雅春先生は肯定的な評価をしていた。
男性は初婚に失敗しても、また童貞でなくとも、次の結婚に困ることはないのにひきかえ、初婚に失敗した女性は、その後は、ただ後妻として、好ましからぬ結婚と承知しながらでも、先妻の残した大勢の子供の無休量の保姆になるべく甘んじて次の結婚を迎えるか、それでなければ、永遠に孤閨を守って生活せねばならぬと云うのは、男女の人間性の平等をみとめないところの、過った日本の伝統であり習俗である。真に宗教的な立場に立つとき、一切衆生は平等の仏である。男女は初婚に於いても再婚に於いても、非童貞に於いても、非処女に於いても、同等に扱われなければならないのである。そのころ新しき憲法に基く婚姻法はそれを規定しようとしていた。新家庭は必ずしも家長の意志によって不性無精押しつけられるようなものであってはならない事になった。家督相続と云う事は新しき家族法では廃止せられ、一人娘でも嫁に行けるし、一人息子でも婿となることが出来る、結婚して夫婦のうちでどちらの姓を名のるかは、本人の自由意志である、若き世代の人たちは自由意志によって、自分自身の幸福を自分で選ぶ結婚が出来る、一切衆生悉有仏性の真理は、一切の男女を平等に「仏」として礼拝し、「仏」として自由に幸福を創造し享受することが出来る時代が来たのである。
(谷口雅春『新版 善と福との実現』160~161頁)
これを見る限り、谷口雅春先生は明らかに家父長制的な秩序を否定している。だが、周知のとおり谷口雅春先生は家制度に肯定的であった。
「家制度=家父長制」という図式の出来上がっている左翼からすると、これは矛盾であろう。しかし、谷口雅春先生はむしろ「家父長制的な習俗を否定してこそ、家庭の調和が齎される」と考えていたのである。
子供を「女の子」として育ててはならない
谷口雅春先生の女子教育について次のように主張していた。
子供を育てるに当たっては、これを「神の子」として育てるべきものであって、「女の子」「男の子」として育てるべきではありません。「あなたは女の子だから……」と申しますと、その言葉の中にはすでに暗黙のうちに「能力低劣者」だとか「弱者」だとかいう女性折伏の意味が含まれたものとなります。言う人がそういうつもりでなかったにしても、長年月にわたって、人類は女性という言葉によって「低劣者」だとか「弱者」だとかを意味しきたったのですから、そういう意味が人類の潜在意識内容に蓄積されているために、一言「あなたは女だから……」とさえ言えば、その次の言葉は言わずとも、「弱い」とか「能力が低い」とかを言外に含ませていることになるのです。ですから、われわれ白鳩会の同人は、できるだけ人類の潜在意識内容から、「女性は弱い」「女性は劣る」などという旧来の観念を打破するように努めると同時に、まだ「女性は劣る」の観念が人類の潜在意識のどこかに潜んでいるかぎりは、子供に対して、「あなたは女の子だから……」といって劣等感を植えつけるような育てかたから絶対に避けるようにしなければなりません。
(谷口雅春『生命の実相』「頭注版第29巻 女性教育篇」17頁)
『生命の実相』は谷口雅春先生の主著であるが、小学時代から中学時代にかけて『生命の実相』全40巻を何度か読んだ私も、この「女性教育篇」だけは男性の私には関係ないと思って、読み飛ばしていた。ところが、谷口雅春先生が再興した宝蔵神社で修行する際、この『生命の実相』「女性教育篇」の講義があるというので、「参考になるかは判らんが、一応勉強はしておこう」と思って読むと、ジェンダーフリー教育を肯定するかのようなこの内容に仰天したのを覚えている。
「え?谷口雅春先生って、フェミニストだったの?」と思ったものだが、その後学習塾で生徒の進路相談に応じるようになると、進路の希望が性別によって有意に異なることが分かった。自分の実力「未満」の学校を受験するのは、有意に女性の方が多いのである。これは谷口雅春先生の言われていたことと関係あるのかもしれない。
客観的なデータを上げると、旧帝国大学は女子学生の比率が異常に低いことで知られる。
東京大学文学部と早稲田大学文学部の偏差値は同程度であるが、東京大学文学部の女子学生比率は三割を切っているのに対し、早稲田大学文学部の女子学生比率は過半数を超えている。従って、この「性差」は学力や合格率ではなく、一種の慣習のようなものであると言える。
これを就職との関連で説明する人もいるが、そもそも大学は就職予備校ではない。特に旧帝国大学は本来ならば研究者養成のために活用されるべきであって、そこに性差があるのは非合理的な慣習であると言える。
家制度は「愛そのもののための愛の生活」
谷口雅春先生が旧来の家父長制的な価値観を否定したのは、家制度そのものを否定するわけではなく、むしろ家制度を強化し家庭を「愛そのもののための愛の生活」とすることに目的があった。
女性は、経済的理由でなしに、ただ純粋な愛情のゆえに、男性を選択し、その男性と傷害の伴侶となろうとするには、女性自身がまずいざという時たちまち独立ちできるほどの経済的にも能力を持っていなければならないのです。女性が経済的能力を握っている必要は、決して男にたてつくためでもなく、また、必ずしも、結婚後、家庭を出て社会に働けというわけでもなく、自分の良人に対する愛が、純粋に「愛そのもののための愛」であって、生活保証を得るための不純分子を混入していないということを自分自身にハッキリさせるために必要なのです。
(谷口雅春『生命の実相』「頭注版第29巻 女性教育篇」6頁)
つまり、谷口雅春先生にとって「家」とは「愛そのもののための愛の生活」を実践する場所であり、「愛情はないが不本意に結婚する」「離婚したいが経済的理由でできない」というような状態は「家」が「愛そのもののための愛の生活」を送る場ではなくなってしまうので問題であった。
従って、男尊女卑な思想を除去して「離婚しても女性が経済的に自立し再婚をできる環境」を整えることは、谷口雅春先生にとっては「家庭解体」ではなく「家庭尊重」のベクトルであった。なので「女性が経済的な能力を持つこと」と「女性が結婚して専業主婦になること」とは、谷口雅春先生の中では何ら矛盾していないのである。
だからこそ、戦後離婚が増えたことを谷口雅春先生は否定的に述べたのである。
最近にもただ花嫁が鼾をかくと云うだけでたった二十日間だけ肉体を弄ばれて離婚せられた実例があり、私にその相談の手紙を寄越されたりしたのである。だから社会道徳の上から一寸気に入らないからとて、離婚が好ましくないのは当然である。
(谷口雅春『新版 善と福との実現』141頁)
この内容から判るように、保守主義者にとって守りたい「家」とは「愛そのもののための愛の生活」であって、男尊女卑な価値観に裏付けられた家父長制ではなかった。
左翼勢力は「家制度=家父長制」のレッテルを貼ることにより、「家」における女性の地位向上を目指すことなく、「家」そのもの解体を目指すこととした。そうした立場は、生命尊重派を攻撃したい医療利権複合体や「女性の社会進出」と称して労働力を確保したい新自由主義者とも協調できるものであった。
谷口雅春先生が晩年に自民党と距離を置いて以降、自民党内で力を得てきたのが、従来の家庭を重視する古典的保守主義ではなく、新自由主義に親和的な「新保守主義」の流れであった。
新保守主義と言うのは「保守の仮面をかぶった新自由主義」である。そこでは家庭は共働きの夫婦の「共助」の場としてのみ評価され、特に非正規雇用の労働者は女性のみならず男性も自分一人の給料では家族を矢視得なくなり、男女ともに世帯を持ちたければ共働きで働かざるを得なくなる状況が出現したのである。
そこには、家が本来果たしていた「愛そのもののための愛の生活」を送る機能は、最早無い。経済的理由で離婚できないのはまさに谷口雅春先生が批判したような家庭の状況であり、離婚の結果貧困に陥るようなことでは本当の意味での家庭調和は実現できないというのが、谷口雅春先生の考えであった。
ここは、真に家庭調和を希求した古典的保守主義の復権が待たれるところである。
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