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北条泰時と楠木正成の思想の根本的な違い

 楠木正成と言えば、戦前は「後醍醐天皇に仕えた忠臣」として知られ、戦後も「鎌倉幕府の支配に抵抗した悪党」として評価され、いずれにせよ「鎌倉幕府と戦った人物」というイメージで語られます。

 しかし、実際には楠木正成公は鎌倉幕府の北条氏の「御内人」であったという説も有力です。

 「御内人」と言うのは、鎌倉幕府のナンバー2である北条氏の子分です。ナンバー1の将軍の子分が「御家人」ですが、鎌倉幕府中期以降の将軍は宮家や摂関家の出世コースから外れた人たちの天下りポストのようなもので、殆ど実権はありませんでした。

 今の政治で言うと、将軍は世襲議員の無能な大臣で、御家人がキャリア官僚です。そのキャリア官僚の筆頭格が北条氏で、彼の下で実務を担うノンキャリア官僚が御内人です。

 ただ、今の日本でもキャリア官僚とノンキャリア官僚の違いがしばしば曖昧になるように、当時の御家人と御内人の違いも流動的だったようです。いずれにせよ、楠木正成も当初は「幕府側」の出自であった可能性があります。

 ならば、どうして楠木正成は後醍醐天皇に協力して鎌倉幕府と戦ったのでしょうか?

「非理法権天」VS「道理至上主義」

 後世、楠木正成公の思想を説明する者として「非理法権天」という言葉が掲げられました。実際には楠木正成公がこの言葉を使った史料根拠は無いのですが、実はこの五文字には幕府のイデオロギーを否定する考えが込められており、楠木正成公の思想に遠からずである、と言えます。

 当時の鎌倉幕府のイデオロギーは何か?それは「道理至上主義」です。

 一口に「鎌倉幕府」と言っても、その実態は「承久の乱以前」と「承久の乱以降」では大きく異なるのですが、その「承久の乱以降」の鎌倉幕府のイデオロギーに基づいてできたのが、第3代執権北条泰時の作った『御成敗式目』です。

 北条泰時は『御成敗式目』制定について、次のように説明しています。

「さてこの式目をつくられ候ことハ、なにを本説として被註載之由人さためて謗難を加ふる事候歟、ま事にさせる本文にすがりたる事ハ候はねども、たゝだうり(=道理)のをす(=推す)ところを被記候者也。」『北条泰時消息文』

【現代語訳】(※意訳)
どうしてこの(御成敗)式目を作ったのか、
「一体、どういう(法律家の)学説を根拠として(法律への)注釈を載せたのか(=そもそも北条泰時にこんなルールを作る法的根拠はあるの?あるならば一体、誰の本に書いてあることを根拠にしたの?)」
等と言って人々がとかく誹謗・非難をして来ることでしょう。
確かに、私はこれといった法律の条文に基づいて書いた訳では無いのですが、ただ道理を推し進めた結果を記したのです。

 要するに、これは「法的根拠なんか無い!道理に従ったまでだ!」と言うことです。事実、北条泰時はこうも記しています。

「この状は、法令のおしへに違するところなど少々候へども、たとへば律令格式は、まなをしりて候もののために、やがて漢字を見候がごとし。かなばかりをしれるもののためには、まなにむかひ候時は人の目をしいたるがごとくにて候へば、この式目はたゞかなをしれるものの世間におほく候ごとく、あまねく人に心えやすからせむために、武家の人へのはからひのた めばかりに候。」(同前)

【現代語訳】(※意訳)
この内容は、法令の内容に違反するところも多少はあるのですけれども、例えば(我が国の公式な法令である)律令格式は正式な文字(=漢字)を知っている人達のために、すべて漢文で記されている訳です。
(漢字など知らない)平仮名や片仮名しか知らない人たちのためには、漢字で書くと人々に(読めもしない漢字を)見ることを強いることになってしまいますが、この式目は平仮名や片仮名しか知らない人達が世間に多くいますから、もっと普遍的に人々の心を安らかにしようと、武家の人が仕事をするために、と思って作ったわけであります。

 要するに「貴族たちは『法律、法律』と言っているけれども、そもそも漢字が読めるのは殆ど貴族だけじゃないか!漢字が読めない世間一般の大衆にとってそんな法律は道理に合わない!」と言っている訳です。

 そして「そんな道理に合わない法律に、少々違反して何が悪いの?」と、開き直っていることになります。

 無論、北条泰時も最初から「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」と言うような考えだったわけでは、ありません。こうなったきっかけは、承久の乱にあります。

天皇陛下を強制廃位にした朝敵・鎌倉幕府

 鎌倉幕府と言えば「御恩と奉公」です。将軍が御家人に「御恩」を与える代わりに、御家人は「奉公」として幕府のために働く、と言うものです。

 言わば、将軍様に恩返しをする。これのどこが間違っているのか。これを否定する方が道理に合わない、と言うのが幕府の考えでした。

 しかし、法律と道理はイコールではありません。鎌倉幕府の将軍は第三代源実朝暗殺事件により源実朝の子孫は断絶したため、止むを得ず幕府は源氏と縁戚であった摂関家の幼児を将軍に擁立します。とは言え、将軍を任命するのは、法的には天皇です。

 従って、法的には鎌倉幕府の御家人たちも「朝廷」や「摂関家」に従わないといけなくなります。そもそも鎌倉幕府の御家人が任命された「地頭」と言うのは、貴族や寺社の荘園の管理人です。御家人はあくまでも貴族よりも数ランク下の存在、況してや天皇陛下に逆らうなど以ての外。

 そして、当時の天皇である仲恭天皇はまだ幼く、祖父である後鳥羽上皇の言いなり。この世の中、なんやかんやで後鳥羽上皇の天下だ!・・・と、後鳥羽上皇本人は思っていたことでしょう。

 ところが。御家人たちからするとそうは問屋が卸せません。

 例えば、過去に後鳥羽上皇は気に入らない地頭をクビにしようとした人間。その時、その地頭の罷免に断固反対したのが、時の執権・北条義時(泰時の父)。御家人からすると自分たちの生活を守ってくれるのは、朝廷では無く幕府です。

 と言う訳で、「朝廷VS幕府」の内乱となった承久の乱では、多くの御家人が法的には反乱軍である幕府の味方となり、幕府軍の圧勝。

 それどころか、幕府は後鳥羽上皇とその息子の順徳上皇を島流しにしたばかりか、まだ4歳の幼児であった仲恭天皇にも責任を取らせて強制廃位に追い込みました。

 一体、天皇を廃位にする法とはどこにあるのか?

 無論、そんな法律などどこにもありません。法律を守っていれば、天皇陛下の強制廃位など不可能です。

 この承久の乱の総大将であったのが、他ならぬ北条泰時。

 そう、彼のしたことは「法令のおしへに違するところなど少々」どころでは、ありません。明確に反乱軍の首領です。

 そこで彼が思いついたマジックワード、それが「御恩と奉公」に代表される「道理」という概念なのです。

 超乱暴に要約すると、鎌倉幕府はこう言う主張をしたわけです。

「道理に合わない人たちは、天皇であっても廃位にしたらよい!」

 この「道理」を「法律」よりも優先する思想ですが、実はこれ、比較的普遍的なものであると言えます。

『御成敗式目』と『日本国憲法』の類似性

 例えば、『日本国憲法』にはこう書いてあります。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 『日本国憲法』は「人類普遍の原理」に基づくものである、その「人類普遍の原理」に反する「一切の憲法、法令及び詔勅」を排除する、と明記してあります。

 ところで、ここで「排除」の対象となっている「憲法」とは何か?と言うと、『大日本帝国憲法』のことです。詳しくは別に述べますが、『日本国憲法』は『大日本帝国憲法』の改正手続きを正しくは踏んでいません。なので「人類普遍の原理」という言葉を使って『日本国憲法』制定を正当化したわけであり、この理屈を徹底したのが所謂「八月革命説」ですが、詳細はまた別に述べます。

 無論、『日本国憲法』ではこの「人類普遍の原理」によって天皇陛下の地位も左右できます。

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 これも鎌倉幕府の「道理」によって法令を「少々」無視し、挙句の果てには時の天皇陛下を強制廃位したのに通じる考えですね。

 『大日本帝国憲法』を『養老律令』に、『日本国憲法』を『御成敗式目』に、そして「人類普遍の原理」を「道理」にそれぞれ言い換えると『日本国憲法』と『御成敗式目』とが全く同じ論理構図の下に成立していることが判ります。

 どちらも戦勝者の武力を背景に成立したものであることまで、そっくりですね。

「道理は免罪符じゃない!」非理法権天の思想

 冒頭で紹介した「非理法権天」の思想は、こういうものです。

「非道なことよりも道理が優先される」

 ここまでは『御成敗式目』と同じ思想ですね。

「道理よりも法律が優先される」
(※道理を理由に法律を無視してはならない

「法律よりも(伝統的な)権威が優先される」
(※伝統的な権威を破壊する法律を作ってはならない

「権威よりも天皇陛下が優先される」
(※どんな権威も天皇陛下を無視してはならない

 楠木正成公も「道理」の大切さは知っていたはずですが、後醍醐天皇の勅令で鎌倉幕府に反乱を起こしました。別に後醍醐天皇から直接「御恩」を受けたわけでは無いのに、です。

 むしろ、最後は後醍醐天皇のために討ち死ににするのですから、彼は後醍醐天皇に従って損をしています。しかも、後醍醐天皇は彼の作戦を一方的に却下した結果、敗戦。道理に合わないことだらけです。

 少なくとも、楠木正成公は「道理を超える価値」を持っていたのでしょう。そして、それに殉じて戦った。そのことを後世の人は「非理法権天」の思想に結びつけたのです。

 この「非理法権天」の思想は、軍事独裁政権から人々を救う思想にもなり得ます。

 「道理」に合わない法律は「武力」に訴えてでも無視する、これはまさに軍事独裁政権の論理です。クーデターを起こす側も「道理」に適うような「大義名分」を掲げる訳ですから。

 かつてジョン・ロックは――『日本国憲法』における「人類普遍の原理」も彼の思想ですが――人間が理性によって把握できる「自然法」こそが普遍的な法律であり、この「自然法」によって革命をも正当化できる、としました。

 まさに鎌倉幕府さながらの「道理至上主義」ですが、このロックの思想を元に建国されたアメリカが世界各地で「独裁者を倒す!」と言う大義名分の下戦争を行っていることはご存知の通り。法の支配の裏付けのない道理など、武力行使の言い訳に過ぎないことを示しています。

今の時代こそ「非理法権天」の思想を

 今の時代、令和の日本にこの「非理法権天」の思想を当て嵌めるとどうなるでしょうか?

 見事、簡単に当て嵌まってしまいました。

「非」・・・法律も道理も無視した政府の暴走、政治家・マスコミ・既得権益層の腐敗

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