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九州王朝説最大の弱点

 七世紀以前の倭国の支配者が大和朝廷やその前身ではなく邪馬壹国とその後進の九州王朝であったという九州王朝説は故・古田武彦先生が主唱者ですが、どのような仮説にも検証可能性、つまり「間違っている可能性」があります。検証可能性を認めない説は仮説ではありません。
 無論、九州王朝説にも「間違っている可能性」というか「弱点」は、当然あります。古田史学の会の会員として私が感じていることは、この「弱点」をあまり意識されずに安易に九州王朝説で物事を説明しようとしている方がいる、ということです。
 さて、古田武彦先生の『「邪馬台国」はなかった』発刊30周年を記念して、古田史学の団体である新・東方史学会が行った講演の記録として関係者に配布した冊子に『東方の史料批判――「正直な歴史」からの挑戦』というものがあります。
 この冊子は奥付に「非売品」と書かれていますが、一方で古田先生がタイトルの通り「正直」に九州王朝説の弱点を語られている、数少ない記録でもあります。
 西村俊一氏に九州王朝説の弱点を聞かれた古田先生は、こう答えています。

《ところが次の弱点となりますとね、九州王朝の系図が、王様の系図がわかっていないんです。参考になるのは高良山とか、松延さんや稲員さんから見せていただいた九州王朝の天子の系図らしきものが、貴重なものを含んでいるのですが、しかしどんぴしゃり古事記・日本書紀みたいに、九州王朝はこういう風な人物が、こういう風な名前で、こういう風な王様として、何年続いておりましたという、それがないわけですね。これはもう断固たる弱点でありまして、この辺の所は古賀さんなんかも盛んに、ご出身が久留米の近辺ですからいろんな情報を探ってご研究を頂いておりますが、私の方法から言えば弱点であると言えると思います。》

 ここで古田先生は「系図」と述べていますが、「九州王朝はこういう風な人物が、こういう風な名前で、こういう風な王様として、何年続いておりましたという」内容のものは通常「系譜」と呼びます。
 この「系譜」が無い、というのは、今改めて読み直すと、九州王朝説の最大の弱点であるといえます。
 というのも、古田先生は『二中歴』等の中世文書に載っている古代逸年号を「九州年号」つまり九州王朝の年号としてきた訳ですが、年号だけ中世まで残って、年号を制定した九州王朝の君主がどういう人物であったかの記録が全く残っていない、というのは、あまりにも不自然であるからです。
 無論、中世文書ではありますが『高良玉垂宮神秘書』等を見ると大和朝廷とは別の政権が存在したことを伺わせるような内容が記されています。しかしながら、その内容は九州に「大和朝廷『の』分家」としての勢力が存在した、というものであり、具体的には高良玉垂命と竹内宿禰が同一人物であったというもので、それを史実というのはなかなか難しい上に、仮に一定の信憑性を認めたとして、それは九州王朝説の内容とは大きく異なります。
 だから古田先生の言われるような「どんぴしゃり」なものではないし、一部の九州王朝説論者はそれを「大和朝廷が隠したからだ」と言われますが、そういう陰謀論的な主張を古田先生は批判してきた訳ですから、古田先生は「私の方法から言えば弱点である」と率直に認められたのだと考えます。
 また「系譜」まではいかなくとも、西暦7世紀まで九州王朝が存在したのであれば、8世紀前半の人は九州王朝の時代を過ごしたわけですから、8世紀となると文献の量も少なくない訳ですし、少なくとも「痕跡」ぐらいは色濃く残っているはずです。
 仮に奈良時代の文献から九州王朝の痕跡を見つけた場合、まさに「検証可能性」のある仮説を提示できます。
 しかし、九州王朝説論者の多くは奈良時代以降の歴史にはあまり関心が無いようです。古田先生自身中世史の研究者であった訳で、古田史学を掲げるのであれば7世紀以前だけでなく幅広い歴史に関心を持つべきであると考えますが、現実にはそう言う状況になっていないことこそ、九州王朝説の「弱点」と言えるかもしれません。


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