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『性』をテーマとした語りと即興

『弔い~』に続く「語りと即興」の第二弾。
主宰のdairaさんが紡ぎだす空間が好きで、今回も参加してきた。
前回は一言も話せなかったので、今回こそはって思ってたけど、結局最後にちょこっと話すことしかできなかった。
それでも思うことはたくさんありすぎて、いつかどこかで自分の言葉として自分の人生に関わってくる気がしたので、忘れないように記しておく。

残酷で暴力的な空間

性教育、が語りの中で話題になった。性教育は、誰がいつどこで行い、それはどのように子どもに吸収されていくのか。

自分は4年前まで中学校の教師だった。
性教育を授業で行う立場ではなかったが、生徒たちは性というものに多感になる時期であり、そしてその扱いを持て余す時期でもあった。

それに加えて、プール。修学旅行の部屋、お風呂。保健体育の授業。運動会の種目。健康診断。「男」と「女」という身体的なセクシャリティを強烈に押し付けられる。多分大人よりもずっと頻繁に、苛烈に。

この4年でLGBTに関する認識は急速に広まった。少なくとも昔より自分の性志向や性自認を公表している人を目にする機会も増えた。だから、今の中学校がどうかは分からない。

ただ、少なくとも自分が居たときの中学校という空間は、いくらLGBTの教育を行っていたとしても、まだまだゲイやレズビアンという言葉はからかいや囃し立てにして使われる言葉であった。そしてLGBTをオープンにしている生徒には、9年間の教員生活で一人も会ったことがない。

今になってみると、なんと性に対して残酷で暴力的な空間で、自分は教師としてそこに無意識に加担していたのだろう、と思うのだ。

「男性」であることのめんどうくささ

人間は多分自分が得ている利益に対しては無自覚になりやすく、不利益は逆に自覚しやすいのだろう。だから今から書くことも、お前の我儘だろ、女はもっと大変なんだ、って言われたら、何も返す言葉はない。

自分はヘテロセクシュアル、だと思う。(アセクシャルかと思うこともあるが、多分自己肯定感が低すぎるのが原因なだけなのだろう)

第七官界彷徨の時も思ったが、「男性」というものはそれだけで権威性をもつし、女性からの「怖れ」というものを生みやすい。こちらはフラットに対話したいだけ、なのに。めんどくさい。

男とか女とか関係なくその話題の輪に入りたいだけなのに、女性が自然と固まって出来上がる入りづらい輪がある。めんどくさい。

そうやって「めんどくさい」が積みあがっていく。

恋愛対象として見る女性という存在ももちろんいるんだけど、日常生活の大半で接する女性はそうではなくて、シンプルに仕事や演劇の仲間として、友人として、もっと相手を知りたい、仲良くなりたい、一緒に成果を上げたいと思う相手である。

そういうときには男性・女性というセクシャリティが本当にめんどくさい、と思うのだ。

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