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宇和島[2023.3.13,14]

今回は四国の西側へ。四万十川や足摺岬を回って、宇和島に来ました。
朝から宇和島城跡へ。宇和島駅から徒歩5分ぐらい。

宇和島城は現存12天守の一つである。建物の一部は消失および改築があるが、今日まで保守されている。

宇和島城のはじまりは明らかでないが、藤原純友の乱の頃に起源があるようだ。戦国時代には領主が次々に変わる。長宗我部氏の時代を経て秀吉が四国を平定。江戸時代に入って藤堂高虎が治めている。

藤堂高虎と言えば加藤清正や黒田官兵衛と並ぶ築城の名手である。四国で言えば今治城も彼による築城。

宇和島城は彼の指導で1596年に大改修があり、1601年には天守も完成。それは関ヶ原の戦い以前の天守として知られる望楼型の天守であった。それに対して、今日の宇和島城の天守は層塔型と呼ばれるものである。これは藤堂氏のあとに入場した伊達氏の時代に行われた大改修によって完成したものである。

望楼型の天守と層塔型の天守、何が違うのだろうか?前者は入母屋造(上層は前後方向に勾配をもつ切妻造、下層は4方向に勾配をもつ寄棟造)の建物の上に櫓(望楼)を載せている。これに対して後者は1階から同じ形の建物を小さくしながら積んでいく。千鳥破風と呼ばれる装飾的意味合いの強い破風が特徴的である。

天守の細かい話は置いておいて、ここでは8代藩主伊達宗城に注目したい。

彼は7代藩主の養子となり、やがて藩主の地位を継いだ。幼い頃から聡明だったようで、のちに幕末四賢侯の一人に数えられている(他の3人は福井藩主の松平慶永、土佐藩主の山内容堂、薩摩藩主の島津斉彬)。

宗城は蘭学を積極的に導入し、「軍事の近代化」と「殖産興業」を行った。特に軍事の面では蛮社の獄のあと脱獄に成功した高野長英を庇護し、蘭書の収集、翻訳、砲台の建設、海防策の立案などに取り組ませた。長英がいたのは約1年だったが、その後には軍制改革で知られる村田蔵六(大村益次郎)を迎えている。

その後宗城は幕府の参与を経て、明治政府では民部卿と大蔵卿を務めている。

アーネスト・サトウが「小国の一藩主にはもったいないくらい」という趣旨のことを言っているだけあって、宇和島藩は優れた藩主に恵まれたということだろう。

(ついでに)
翌日は大洲市の大洲城も見に行きました。ここも藤堂高虎の修城。層塔型の天守でした。



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