「水俣病小史」

先日の水俣展でなんとなく買ったもの。

水俣病の歴史であるが、明治41年に、寒村であった水俣村に化学肥料等の工場が建設されてから、程なくして付属の診療所が開設されている。それは、工場従事者の検診で中毒症状が報告されたからである。

そして、度々、地元の漁民と、工場排水による漁業被害による補償問題が起こってる。当時は、有機水銀の被害なんて思ってもみなかっただろうけど。水俣病の問題は、こんな昔からあったのだ。

昭和29年になって、水俣湾の猫が絶滅してることが報告され、5月1日、企業チッソの附属病院で原因不明の脳障害の患者4名が確認されている。これが水俣病の公式確認の日である。

当然、企業チッソは、この事実を隠しており、保健所や熊本大学医学部、各関係機関が調査をするも、まだあくまで原因不明であった。戦時中に米軍が水俣湾に投棄した爆弾が原因とする説もあった。

アメリカから来日した医学博士の現地視察がキッカケとなって、有機水銀中毒が浮上したわけだ。企業チッソは、御用学者や付随する医療機関、業界団体の他、政府や行政も味方に付けて、工場排水が原因ではないことを度々、アピールしている。企業チッソは、戦後の日本の高度経済成長を大きく支えていたからね。

水俣病は、公害の原点であるが、原因物質がハッキリと確認されるまでは、企業チッソは、徹底的に責任を逃れて、操業を止めることなく、何ら手を打って来なかった。従って、被害が拡大したのだ。そして、60年以上に渡って、ドロ沼のような裁判や補償の問題が続くのである。


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。