家族会議の結果わたしはご飯を作らないことになりましたというタイトルを見て
これね。近代社会のテーマですよ。端的に言って私は料理が得意でないし冷蔵庫の中身も把握しきれないので妻にやってほしいと思っています。
が、どちらも仕事をしていて家事の一つである「料理」を妻だけに負担させるのはよろしくない。これは確実に言えることである。
小声で(でもね、掃除、洗濯、畳んで、子どものPTAや自治会のことも俺がやってるんですよ。)それでも家の中汚いんですけどね。やり切れていないというか下手というか。
妻いわく「私も料理は得意でない(好きじゃないだけでとてもおいしい料理を作るし上手だと思うんですけど)。それに作った料理に手を付けないことがしばしばあり楽しくない(おかずの品数が多すぎる。好きなものから手を付ければおなか一杯になって手を付けられないものもでてくるさ。俺が作った料理だって私は好きじゃないからとか今日は飲んじゃったからそれには手を付けられないとか理由を付けて食べてくれないくせに)」→作ったものに手を付けてもらえない悲しさは理解できるようになりました…
ただし肉料理だと2合くらい食べるが魚料理だと小茶碗一膳で満腹になる。この魚料理の時のことをやり玉にあげ、私の料理に手を付けないくせにといい、作りたくないとごねる。
どちらにしてもおなか一杯になるまで食べていて、私は満足しているのですが、妻曰く食べっぷりが変わることが納得いかないらしく料理を作る気がなくなると。
俺(他人)に解決対応を求めるのではなく、自分で解決策を講じたほうが良いと思うのだがいかがなものだろうか。「他人と過去は変えられない」でしょ?
例えば極論だけど、食べてほしいなら肉料理だけを作るとか。おかずの品目を(一つに)減らすとか。方法はあるわけで、それを私の行動を変えろというのは暴論ですよ。
で、タイトルに戻りますけど。作らないってのは極論ですね。中途半端は困るけど時間的に、技術的に、作ることができるのであれば子どものために?相手のために?作ってほしいところであります。
大学生の時に「うちのカレーは…。母の玉子焼きは」
なんて話を数回だけどしたことあるし、やはり会話に何度かは出てくるテーマだと思うんですよ。その時「うちの母は料理しないから」とか言いたくないじゃん?(私の考えの押し付けなんですけど、これを言ったら母を見限っているというか、友達に自分の母を悪い印象でとらえさせてしまう可能性がごく少量ある気がしています)
で、うちの妻も作らないからと宣言をして本当に料理をしなくなった時期があって、私が洗い物をため込んで食器とかを翌朝まで水につけていたりすると虫が湧くからすぐに洗ってくれないなら料理しないという理由だったのですが。そんなに気になるなら自分で洗えばいいじゃん。相手に求めすぎているのか、本当に他人を自分の意のままに動かしたがっているというか
期待しすぎないで、でも頼っていけたらなと都合のいいことを思う次第でございます。よく怒るしやな感じ
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?