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麗らかな春の日のバスでしょげたこと

 4月の日曜日、暖かな春の陽気に誘われて3歳の息子と大きめの公園に行こうと思いたつ。その公園では隣接の広場でイベントが開催されていることもある。調べはしないが運よく楽しめるイベントがあったらラッキーなんて思いながらバスを待った。
 私は時間が読みづらいバスは好きではないのだが、その路線バスはちょうど最寄駅から乗り換えなくその公園にいくことができ、唯一大体の頻度や経路、所要時間を覚えているバスである。理由は分からないが市バスと私鉄バスが同じ経路で走っていて料金も同じ。何も考えず、いつも先にバス停に来た車両に乗り込む。その日は市バスだった。私が乗り込むバス停は電車の駅でもあるため、大抵はそこまでに乗っていた乗客の大半が降り座ることができる。ただその日は春の行楽日和ともあり、乗客が半分降りてもまだ席はいっぱいで、息子と私は立たざるを得なかった。
 途中のバス停でも数人ずつ乗車客が増える。息子と私は最初は乗車口の近くで立っていたが、少しずつ中の方へと押し込まれる。息子が大人の間で押し潰されないよう階段に上がらせ、息ができるようにする。乗り物大好きな息子だが、流石に疲れるようで不満そうな顔をして私の腰を両手で抱えている。
 バス停で体格の良いおばあさんが乗ってきた。おばあさんは「混んでるねぇ」と言いながらぐい、ぐいと入って、すぐ近くにやって来た。バス内の階段に上がっている息子と階段下に立ったおばあさんの顔は近いところにあり、おばあさんは「あらー、どこいくの?」なんて話しかけてくる。
 話好きなおばあさんは割と好きだ。でもその時は何となく良い感じがしなかった。窮屈で近すぎるからかな、と最初は思った。あまりに近いので、自分もマスクをしていないくせに、マスクをして欲しいと思ってしまった。おばあさんは私にも話しかけてきて「混んでるねぇ、若い人は私鉄バスに乗れば空いてるのにねぇ」と言われ、私は「そうですねぇ」となんとなく答えたが、意味はよく分からなかった。続けておばあさんは独り言のように「経路も一緒だし値段も一緒なんだから」とか「市バスは敬老乗車があるから」というようなことを言った。そこで「あぁ、私や息子は乗るな」と言っているんだなということがようやく分かった。おばあさんは割引運賃が使える市バスを選んで乗っており、どちらに乗っても条件が変わらない人が乗車していることによって混雑していることに腹を立てていたのだ。
 嫌味な人だなと思っていたらまた次のバス停で数名が乗車した。降りていく人もいたので混雑はしているもののまだ5人は乗れるというような状態だった。おばあさんは同じようなことをぶつぶつと繰り返していた。そして10代か20代の女性が一度乗った時に押し退けるようにしながら同じことを呟き、少し無言での攻防が見られた後、結局その女性は諦めて降りてしまった。
 女性が降りた時、私はびっくりした。そしていたたまれない気持ちになった。おばあさんが市バスを待つのは理解できるし、敬老者だから座りたいという気持ちもわかる。でも、なんだか苦しくなった。おばあさんはその後、気を取り直したようにまた息子や近くの親子に話しかけたと思ったら、遠くに空いた席に行こうにも行けないことに文句を呟いたりした。
 私は降りた女性に声をかけたかった。押し除けられて悲しかった気持ちを聞きたかった。別に何とも思わなかったかもしれないけど、とにかくその女性が気になって仕方ない。何か無理がある時、苦しむ人がいる。苦しみは伝播する。人から人に渡るけど、それを人に渡したり空間に発散したりできない人が、苦しみを吸収していたりする。私にはその女性が、混雑バスの苛立ちを吸収しているように見えた。

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