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あかりやのはじまり

墨田区は京島という下町の六軒長屋の一角に、2009年末から川村泰裕(以下、カワムラ)と住みはじめた。

トモヒロは大学卒業後に就職をせず日本中の農山漁村を訪ねる旅を、カワムラは新卒で入った会社をリストラされたあとで辿り着いたその家に、ぬくもりがあって、ほっとできて、元気がない人もちょっと希望を持って生きられるような、そんな場所であってほしいという願いを込めて「あかりや」という名前をつけた。

あかりやがあったのは、2009年12月から2019年1月まで。その後、残念ながらこの歴史的にも文化的にも価値のある建物は取り壊されてしまった。
トモヒロは2013年4月までは住んでいたので(2011年の東日本大震災後はしばらく不在にしたけど)、あかりや前期の住人ということになる。2017年に墨田区を引っ越すまでは近くに住んでたので、一応なんとなくその後も眺めてきた。

あかりやを卒業してから、当時の住人たちのライフステージもどんどん変わっていった。暮らす場所はもちろん、仕事を得たり変えたり、結婚したり子供ができたり。
みんなそれぞれの道を、前を向いて進むしかなかったので、なかなか振り返る機会もなかったけれど、コロナ禍によって時間ができた2020年5月にオンライン同窓会を開いた。なぜかリアル住人じゃないメンバーが多かったけど、それもあかりやらしくてよかった。

そこで改めて感じたのは、あかりやとは不思議な場だったなということ。
時期的には、シェアハウスの先駆け的な存在だったかもしれないけれど、みんながイメージするそれとはあまりにもギャップが大きい。

建物でいうと、二階建ての六軒長屋で、住み始めた頃には既に築80年くらいだと教えてもらった気がする。
関東大震災で焼け野原になったあとにできて、東京大空襲は奇跡的に免れ、戦後はその一角が人口密度が日本一だったこともあったという話も聞いた。

一階と二階にそれぞれ一部屋ずつの建物に、当初は2人で住みはじめた。2009年の大晦日は、畳の張替えが間に合わなくて、ブルーシートを敷いたところに寝て年を越したのが懐かしい。隙間風で凍え死にそうだったな…。

翌年の3月にカワムラはベトナムへ移住し、なぜか偶然その翌朝にヒロキが引越してきて、そのすぐ後にはタッティが転がり込んできた。その後も住人は入れ替わりながらも平均3-4人で暮らしていた。

一階は基本オープンスペースなので、二階の一部屋に大の男が布団を並べて眠っていて。誰かに話す度に「プライベート空間がなくてよく大丈夫だね」と言われていたことを思い出した。自分も個室を与えられて育ったので、はじめは大丈夫かなと不安に感じた気もするけど、慣れてみたら全然ストレスはなかったし、他の住人たちもそうだったと思う(このあと書き手として出てくるであろう非常識すぎる住人が現れるまでは…)

サプライズで誕生日パーティーをしちゃう、なんて感じではなく、かといって冷蔵庫に自分のものに名前を書くなんてこともしたことはなく。とくに明確なルールを定めたこともなく、明確な役割分担もほとんどなかった。
お金のある人がお酒や食べ物を買ってきて、余裕のある人がつくったご飯をみんなで食べて、気づいた人が掃除をして、という感じで。不思議とちゃんと回っていた。ケンカや口論も数えるほどしかなかったと思う(少なくとも前期は…)

大企業のサラリーマンも、フリーターも、学生も、失業者もいた。仕事や立場はバラバラだったけど、ちょっと不器用な人たちが集まっていた気がする。
みんな自分の痛みを知っていたから、いつも誰かにやさしかった。
書きながら、これが実は大事だったのかもしれない、と思った。

風呂住人という制度も途中からはじまって、近くの風呂無し物件に引っ越してきた友人たちが夜な夜なシャワーを浴びに来た。そこに泊まりに来る人たちも使いにくるので、夜中や早朝にはじめましての人が裸で立ってるなんてこともあった(お風呂は居間にあって脱衣場がなかった)

そんなこともあって、というか、そもそも住みはじめた頃から鍵を閉めたことがなかった。途中からは鍵も見当たらなくなって、ほんとに一度も鍵を閉めなかった。
ザ・下町にあって、近所はみんな顔見知りだし、両隣のみなさんもたまにうちに飲みに来ていたし、全然不安はなかった。そもそも取られるものもなかったし、たとえなにか取られたとしても、フルオープンでいることで得られる精神的余裕が圧倒的に上回っていた。あまりにオープンなので、たまに道行く知らない人が訪ねてきて、他愛のない話で盛り上がるのも楽しかった。

ちょっと暮らしたり、風呂だけ住人まで含めるとのべ50人くらいいたはず。あかりやからの縁で引越してきた人も多くて、そこからはじまったプロジェクトとかもいろいろとある。2010年に立ち上げた「すみだ青空市ヤッチャバ」という下町版ファーマーズマーケットも、思えばあかりやに暮らしたことがきっかけで産まれたようなもんだし。

でも、関わっていた時期が違えば知らないことも多いはず。それぞれの時期のあかりやはどんな感じで、みんながどんな風に暮らしていたのか。当時なにを感じて、考えて、なにが起こっていたのか。

建物はなくなってしまったけど、それぞれの中にたしかにある「わたしとあかりや」の物語を、改めて探ってみたいということでこのnote連載をはじめてみることになった。きっとまとまりはないけど、みんなが自由に書き記してくれると思うので、どうぞおたのしみください。