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学友へ最後の挨拶

数ある友情や人間関係の中でもやはり共に学んだ学友というのは格別な関係だと思う。それもフランス留学時代、だから25年以上前のパリの同級生というのは更に特別だ。私は日本からの留学生で彼はオーストラリアからの留学生。そして私達はクラスメイトでもありパリでアパートを共有するハウスメイトにもなったので1年半程ほぼほぼ毎日顔を合わせていた事になる。
よくクレール通りのカフェで語らい、ジョルジュサンクで映画を見たり夜遊びした思い出は数知れず、2人であちこちフランス国内週末旅行、イタリアやスイスにスキー旅行、パリからドライブして東欧へのロードトリップに出かけた事もあり共に若き日の一年半という濃い時間を過ごしたといえる。

卒業した後、私はドイツで日系企業に数年勤め日本へ帰国。彼もやはりパリで国際機関に数年勤務した後オーストラリア政府に勤める為に帰国と離欧のタイミングも合い、お互いの帰国後、彼も一度日本に観光に来てくれた。東京だけでなく福島県の実家に泊まってもらい、裏磐梯や会津若松、いわきハワイアンズなどを満喫してもらった。私も彼の故郷ブリスベンやゴールドコーストに遊びに行き、その後二回目のオーストラリア行きでは彼の結婚式に出席した。その後もSNSでずっとやり取りはしていたが、年数回メッセージを送り合うくらいで、ここ10数年実際に会う事はなかった。

数週間前に奥さんから本人に電話をかけてほしいと連絡があった。あまり多くを語らなかったがここ一年程癌での闘病生活だったらしい。すぐに国際電話を入れ病床から本人と10分程度話す事が出来た。声は少し弱々しかったが、近況を聞いてきたり最近見た映画の話をしたり、そしてパリの日々は最高だった、あのヨーロッパの日々がその後の人生を作ってくれた、もう一度行きたかったなと泣いていた。私はハングインゼア、もう一度会ってたくさん昔話をしようじゃないかと伝えすぐにオーストラリア行きの航空券チケットを予約した。

だが出発の二日前に夫が亡くなったと奥さんから連絡が来た。亡くなる前に自分ともう一度会いたかったと話していたと聞いて落涙した。

そして今、自分はこれまで経験した事の無いような喪失感を感じている。ただ、当時は親しかった学友とは言え、ここ10年以上はそれほど交流が無かった、ましてや海外にいる昔の友人だ。なのになぜここまで激しい喪失感に襲われているのかと思われるだろう。自分でもそれがわからなかった。

そしてその喪失感が何なのか、昨夜気づいた。

それは自分の人生の過去の極めて近い生き証人がこの世からいなくなってしまったからだという事に気づいた。

私はどこにでもいる単なる普通の冴えないアラフィフのおっさんだ。

だがかつてはパリのキャンパスで世界各国から来たクラスメイトと共に国際関係を学び、時には熱い政治討論などをしながら世界の未来は自分たちが変えられると信じていた若者の1人だった。通貨統合などヨーロッパの歴史を現地で目撃し自分の人生を形作ってくれた輝かしい時期を今でも誇りに思っている。あの時期があったからこそ今の自分があるとフランスやヨーロッパ当時の仲間に感謝している。そして彼は若かりし日の自分を間近で見ていた目撃者だ。

この激しい喪失感は自分達の過ごしたあの歴史の一場面の間近での目撃者がもうこの世界にいないという喪失感だった事に気づいた。

この今のちっぽけなくだらない自分の人生の、それでも過去の輝かしい一時期を近い場所で共に歩んでくれた歴史の生き証人、目撃者がこの世界からいなくなってしまった喪失感なんだと気づいた。

彼とは以前、パリからずっと東にドライブして東欧スロベニアまで旅した事がある。今度はいつか上海からパリまで陸路で旅行しよう、逆方向から世界を見ながらあの思い出のパリにもう一度戻ってみようと話していたのだがその約束は遂に果たされないまま終わってしまった。

(お葬式で最後のお別れをする為にブリスベンへ向かう機中でこれを書いています。)

追補
今回初めてなんとなく彼の風貌を思いださせる娘三姉妹や弟達とお会いする。
「トモの話はよく父から聞いていた。ヨーロッパ時代の父の話をたくさん聞かせてほしい」
「もちろんだよ、お父さんに僕が初めて会ったのはパリの大学でのクラスの廊下でね、最初に彼が………」



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