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充分に安心して失敗できる場所

※長文です。読んだら、読書感想文書けるくらい。
 提出は不要だけど、心の中で感想文をしたためてください。

■人間関係あるある
なんか馴れ馴れしい
勝手に人のものを使う
聞いてないのにベラベラうるさい
あの人の言葉はキツイ
気づいたら隣に座ってくる

そして、時々そのようなことが発展する形でトラブルになる
そんな人がいます。大人でも子どもでも。

■心の距離感
その方の特性として、人との距離感の感覚が違うのかな?
私とその方(Aさんとする)において
私はAさんと、ちょっと親しい、※わかりやすく心の距離1mとする。
Aさんは私に対して、同じくちょっと親しい、※心の距離20cm。

そう、同じ「ちょっと親しい」でも人によっては、
1m、20cm、3m、50cm
感覚は人それぞれ。

でもこのすり合わせが行われないから、
なんか馴れ馴れしい
勝手に人のものを使う
聞いてないのにベラベラうるさい
あの人の言葉はキツイ
気づいたら隣に座ってくる

みたいなのが日々起こり、
距離感遠目の方はストレスがたまるし、
中には男女間だとセクハラってなっちゃうことも
※もちろんすべてのセクハラがこれではありません
 「そんなつもりはなかった」のセクハラの中には
 こういうのもあるのかな?という私見です。

■私の場合
そして私は人との距離を遠目にとることが多く、
それは小さい頃にいっぱい失敗をしてきたことと関係があると思う。

なんか馴れ馴れしい
勝手に人のものを使う
聞いてないのにベラベラうるさい
あの人の言葉はキツイ
気づいたら隣に座ってくる

これらのうち、半分以上は小学校の時に友達や先生から指摘されてきた
そして、長い時間をかけて、きっと距離感を調整してきたんだと思う。

充分に安心して失敗できる場所、それがあったんだと思う
指摘されても、セカンドチャンス、サードチャンス、、、
ほぼ永遠にチャンスがあった。それが当時の学校や地域社会だったと思う。

■大人になると
一方、大人になるとこういうことを率直に言うことは少ない。

いや、言えないよ
言わなくてもわかるでしょ、普通(←この普通という言葉が怖い)
距離置いちゃえばいいよ
関わらなければいい

そして、我慢の限界が来てから、言い争いや
一方的なクレームなどいろんな形で爆発が起こる。

■結局何が言いたいのか?
私がそうであったように、言われないとわからない
それは大人も子どもも同じじゃないかな。
言ってもわからない人はもちろん多い。
・言わなくてもわかる
・言われたらわかる
・言ってもわからない
いろんな人がいる。
だから私は、可能な限り率直でありたい

それはトモエピ、お前だから言えるんだろう!
というツッコミが聞こえてくる

なんか馴れ馴れしい
勝手に人のものを使う
聞いてないのにベラベラうるさい
あの人の言葉はキツイ
気づいたら隣に座ってくる

これらを言える環境にするには
みんな仲良し、を目指さないのはもちろんだけど
嫌なら引けばいい、だけじゃない
違和感や不快感は示すのが勇気とやさしさ、という感覚を
その職場や大人の集まりのコミュニティのメンバーに
求めてもいいんじゃないかな?と思う
もちろん、その場合は言った本人だけが正解ではなく
言った本人と言われた人が感覚や距離感をすり合わせるという前提でね。

人との距離感は千差万別
違和感や不快感は示すのが勇気とやさしさ
すり合わせて共存できますように

指摘する、指摘される、これは全員当たり前

■最後に
以前、コミュニティについて、「多様性を認める」というルールがあるとき
「多様性くそくらえ」という多様性も認めるべきか。
という問いと考察の興味深い記事があって、
私なりなりにも考えをまとめたことがあった。
私の答えはNO。

だから今回の件も
人との距離感は千差万別
違和感や不快感は示すのが勇気とやさしさ
すり合わせて共存できますように
指摘する、指摘される、これは全員当たり前
このルールを承認する人に、私のコミュニティに参加してほしい。

あっ、以上これはいつか私が自分のコミュニティを作るなら
っていう妄想の話でした。

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