鳴神隼のただ一人の為の推理 九話
九.第三章⑤:猛禽類の眼は獲物を捕らえる
残された琉唯は香苗の遺体に目を向ける。隼は香苗の首元に残る絞殺痕を巻かれた縄に当てていた。ぴったりと太さが合うのをみるに凶器はこれで間違いなさそうだ。
フリルのあしらわれたブラウスに乱れはなく、争った形跡というのはない。ふと、目に留まった胸元が湿っているように見えて琉唯は触れた。
「濡れてる」
「水分か」
琉唯の気づきに隼が近くを探すも、飲み物の入ったペットボトルなどは見当たらない。飲料水を零したのでなければこの濡れた服はどう説明すればいいのか。あれと琉唯が違和感に気づいた。
「ペットボトルが一つもないの、おかしくないか?」
琉唯の記憶では辰則が昼食を持っていった時に香苗はペットボトルの飲料水だけを掴んで部屋に閉じこもったのだ。だというのに、それすら残っていないのはおかしい。琉唯の指摘に隼はふむと顎に手をやった。
「ペットボトルを残してはいけない理由が犯人にはあったと」
「なんだろう?」
「例えば、薬を仕込んでいた可能性」
睡眠薬のようなものを飲料水に仕込み飲ませ、香苗を眠らせることに成功すれば、何の抵抗もなく殺害することができるかもしれない。飲料水が転がっていれば、警察が調べればすぐに特定できる。
特定されないために回収したというのが一番、考えられるのではないだろうか。隼の推測に琉唯は「全てのペットボトルを回収する必要はなくないか?」と疑問をぶつける。
薬の入ったペットボトルだけを回収すればいいのではないかと問えば、隼は「それができなかったのだろう」と答えた。
「何らかの原因でペットボトルが転がり、薬の入ったものとそうでないものが触れてしまった。拭き取るだけでは不安だったのだろう」
「転がったら床が濡れてないか?」
「あの短時間だと……彼女の荷物からタオルを取り出して拭いたか」
香苗の荷物からタオルを取り出して拭き、ペットボトルと一緒に回収しておけばいい。隼は「まだ処分しきれていないだろう」と証拠が隠されているのではないかと推測した。
隼の推理を聞きながら横たわる香苗を見つめていた琉唯はあっと声を零した。彼女のスカートに隠れるようにクマのキーホルダーが落ちていたのだ。何処かで見たことあるなとそれを手にしてみる。
「これ、どこかで……」
「見覚えがあるのか?」
「うん。えっと、確か……墨田くんがスマホにつけてたキーホルダーだ!」
思い出したと琉唯はリビングルームから出ていく時に取れかかっていたクマのキーホルダーのことを隼に話す、辰則のもので間違いないと。
これが落ちていたということはもしかして、彼がと琉唯は言葉にしようとしてやめた。隼が黙って遠くを眺めているのを見て。
「隼?」
「ひとまず、俺たちも一階に下りよう」
他の人の様子が知りたいという隼に琉唯も健司の様子を思い出して、また何か揉めていないか不安で急いでリビングルームへと戻る。
階段を下りれば「健司、落ち着け」という浩也の声が耳に入った。「落ち着けるかよ!」という怒声は扉の向こうからでも響く。
「こんな状況で落ち着いていられるかよ!」
「だからって、ここで取り乱してどうすんだ!」
「ひろくんの言う通りですよ!」
苛立ったように頭を掻きむしる健司になんとかフォローを入れる千鶴と浩也だが、彼は段ボールの上に座りながらも落ち着きなく足を揺すっていた。辰則から目を離さずに睨らみながら。
陽子と優子はダイニングテーブルの椅子に座っているがペットボトルを持つ手が震えている。辰則は健司の眼に怯えてか部屋の隅で縮み上がっていた。戻ってきた琉唯たちに視線が冷たく刺さる。
「これは君のモノで間違いないだろうか?」
そんな視線など気にも留めずに隼がクマのキーホルダーを見せれば、辰則は慌ててポケットに仕舞ったスマートフォンを取り出した。紐がぶつりと切れているのに気づいて彼は顔を青くさせる。このキーホルダーは間違いなく辰則の物だ。
何処に落ちていたと聞きたげな顔に「佐々木香苗の遺体の傍に落ちていた」と、彼女のスカートに隠れるようにしてあったと隼が説明すれば、健司が「やっぱりお前が!」と彼に殴り掛かる勢いで立ち上がった。
飛び掛かる前に浩也が羽交い絞めにして止めるけれど、健司は離せと暴言を吐きながら暴れる。
「えっと、墨田くんが犯人ってことなの?」
「違う! オレは何もやってない!」
千鶴の言葉に「佐々木なんて殺してない!」と辰則が叫ぶ、その瞳からは涙が溢れそうだ。自分に向けられる疑いの眼に耐え切れないといったふうに。
否定をされたとて、信用してくれるとは限らない。皆が皆、警戒しているのはその視線で伝わってくる。現場に落ちていたクマのキーホルダーが彼が犯人なのではないかと知らせているように見えて。
「彼が犯人と決まったわけではない」
水のように冷ややかに、落ち着いた声が空気を裂く。辰則に向けられていた眼が隼へと移る。彼は動揺することも、睨むようなこともしていない。ただ、周囲を見渡す眼は鋭い。
「これは出来すぎている」
「出来すぎている?」
言っている意味が分からずに琉唯が首を傾げれば、隼は「俺にはそう見える」と返して一つと指を立てる。
「まず、犯行時間だ。確かに墨田、君が最初にリビングルームを出て行った。けれど、それから陽子さんと優子さんも二階に上がっている」
辰則の後に優子、それに続くように陽子がリビングルームを出ている。その間の時間は多く見積もっても十数分だ。その間に人を殺害することができるのか、まずそこが気になる点だ。
「次に墨田は佐々木香苗に警戒されている。昼間に二人が口論しているのを俺と琉唯が目撃した。優子さんたちに報告している」
香苗は辰則に「あんたでしょ、隆史先輩を殺したの!」と警戒心を露わにしていた。そんな人物が夜に部屋を訪れて扉を開けるだろうか、次に疑問に感じる箇所だ。
自分ならどうだろうかと琉唯は想像してみる。疑っている人物が夜に一人で部屋を訪れた――扉は絶対に開けないなと結論が出た。どうあっても、会いたくはないし、部屋から出たくもない。
「貴方ならそんな相手が夜に一人で訪ねてきて扉を開けるのか?」
隼の問いに健司は黙る、彼も琉唯と同じ考えに至ったのだろう。「じゃあ、誰なんだよ」と浩也に掴まれた腕を振り払った。
「一つ、可能性があるのだが……」
そう言って隼がある人物に目を向けた――瞬間だった。
「うっぐっ」
「陽子っ!」
胸を押さえ苦しみながら陽子は口を開け、揺れる眼で優子を捕らえながら倒れた。床に爪を立て、もがき――動きを止める。
「陽子!」
倒れた陽子に健司が駆け寄ろうとして、優子が彼女に縋りついた。苦しみにもがい眼が虚空を見上げて、人がまた一人、死んだと物語る。悲鳴も上げることができないほどに突然だった。
どういうことだと健司は陽子を抱きかかえようとして、「動かすな」と隼に止められた。
「彼女はもう死んでいる。動かしてはいけない」
「な、どうして」
「痕跡を隠されては面倒だ」
痕跡と健司が眉を寄せる。隼は倒れる陽子の傍まで近寄って脈を計り、首筋から肩へと視線を落とし、床に転がったペットボトルを指さした。
「これは陽子さんが自分で開けたものか?」
「え? そ、そうよ……」
優子は何を言っているのといったふうに睨むが、隼は「他に見た人物は」と健司たちに問う。千鶴も浩也も荒れる健司を落ち着かせるので必死だったようで見ていないようだ。健司も辰則を警戒していたと。
辰則はそんな健司の視線に耐え切れずにずっと俯いていたようで、周囲に目を向けられていなかった。全員の証言を聞いて隼はすっと目を細める。もう一度、陽子の死体に触れる、それは何かを確かめるように。
「何やってんだ」
「俺は一つ、可能性があると言った」
何をと皆が顔を見合わせ、琉唯は彼から目が離せない。隼は縋りついている優子を引き剥がすようにして健司の隣に立たせる。
「彼女の死で可能性は確信に変わった」
猛禽類のような瞳が獲物を捕らえた。
「崎沢隆史の殺害はプレハブ小屋まで呼び出せる人間という数人、絞り込むだけだが、佐々木香苗の殺害に関してはできる人物が決まっている」
呼び出しても相手が怪しまない人物となると、陽子・優子・健司・香苗・辰則と隆史と親しい人物だと絞り込む程度だ。浩也は健司と面識があるが、彼の妹と後輩に会ったのは初めてで、千鶴も同じだ。隼も琉唯も彼らと会ったのはこのバイトがきっかけである。
けれど、佐々木香苗の殺害に関してはできる人間が限られていた。陽子と優子、辰則がリビングルームにいなかったのだ。
隼の「決まっている」という発言に健司が「やっぱりお前か!」と辰則の胸倉を掴む、お前が殺したのかと。
「ち、違う!」
「何が違うだ! お前の私物が落ちてたじゃないか!」
「オレだって今、気づいたんだ!」
「健司先輩、少し落ち着いてほしい」
殴り掛からんとする健司に隼が冷たく制する。俺はまだ話をしているのだというように。何をと食って掛かろうとして健司は黙った、彼の鋭さが増す眼に睨まれて。
ひやりと背筋が凍る。目を逸らすことができない、近寄ることも。冷めた声音に含まれる怒りのようなものを琉唯は感じた。彼は何に対して怒っているのだろうか。
「墨田は犯人ではない」
「はぁ! じゃあ、誰が」
「いるだろう、もう二人。いや、もう一人となってしまったか」
ぎろりと瞳が捕らえたのは、優子だ。皆の視線は彼女に集まり――逃がさない。
それはまるで自分が殺したと言っているようなものではないか。ぎゅっと胸元で拳を握り、優子は「何を言っているの」と言葉を返す。隼は「そのままの意味だが」と彼女に告げる、君たちが犯人だと。
「日野陽子と日野優子が佐々木香苗を殺害した犯人だ」
「何を言ってるんだ!」
妹を犯人と決めつけたことが許せないのか、健司が隼に掴みかかろうとして、さらりとかわされた。「俺は今、話をしている」と邪魔をしないでもらいたいと言って、隼は優子に君たちしかいないと断言する。
「〝日野優子〟としてならば、佐々木香苗は扉を開けたのではないか。彼女は日野優子に懐いているようだったからな」
「何を言っているの! 私も陽子も何もしていないわ! それに私はすぐに一度、一階に戻ったじゃない!」
数分の差をどう説明するのよと優子は主張する。確かに陽子は後から二階に上がり、それから数分として優子が一階に戻ってきていた。けれど、隼は「それはアリバイにはならない」と一蹴する。
「でも、陽子さんが出て行って、優子さんもすぐ下りてきて会話したし……」
「本当に〝優子〟と会話していたのだろうか?」
「え?」
千鶴の呟きに隼は言う、本当に〝あの二人〟だったのかと。どういう意味だと琉唯が彼から優子へと視線を移して、あっと一つの可能性に気づいた。
「日野陽子と日野優子、どちらかが〝一人二役〟したとしたら、どうだろうか?」
双子である彼女たちは容姿だけでなく声も似ている。同じ髪形で同じコーデの服は二人を見別けることが難しい。何せ、服も同じTシャツも同じ色なのだから。デニムも、履いているスリッパも、身につけているもの全てが。双子を見破るのは付き合いの長い人間でもできるか怪しいものだ。
片方が一人二役をやって時間を稼ぎ、片方はその間に香苗を殺害していればいい。「まぁ、それも意味がないと思うが」と隼は語る。アリバイ工作にしては脆く崩れやすい、そもそもなっていないのではなかろうかと。
「おそらく、夕食を運ぶタイミングから入れ替わっていた可能性がある。あの場でどちらが日野陽子か日野優子かを確信をもって判断できる人間はいるだろうか?」
隼の問いに皆、答えられなかった。健司ですら、あの時はまともに妹たちを見てなどいなかったのだ、自分のことで精一杯で。
「これは二人だからできることだ」
「で、でも、証拠なんて……」
「佐々木香苗は恐らく眠らされてから殺害されている」
ペットボトルの飲料水に睡眠薬のようなものを仕込んで飲ませることができれば、無駄な抵抗をされずに殺害することができる。香苗の胸元が濡れていたことを隼は話し、問う。
「俺たちは墨田と口論した後に佐々木香苗がペットボトルだけを持って部屋に入ったのを見ている。だが、部屋にはそのペットボトルが無くなっていた。おそらく転がった際にペットボトル同士が触れてしまったのだろう」
薬を含んだ水に触れたペットボトルを放置しておくことができず、二本とも回収したのではないか。そこまで言って隼は「日野優子だった片方は夕食のトレーを置きにきたな」とダイニングテーブルを指さす。
「そのトレーにペットボトルが無いが、どうしたのか説明してもらってもいいだろうか?」
君は確か言っていたはずだ、呼びかけても返事もなくてと。ならば何故、ペットボトルが夕食を乗せたトレーに置かれていないのか。あの時、すぐに君は出て行ったはずだ。全員の視線がダイニングテーブルに向けられる。指摘された通りに置かれたトレーの上にペットボトルは無い。
隼に「誰かこのトレーに触れただろうか?」と問われて、「私たち陽子さんと一緒に入ったけどいじってるのは見てない」と千鶴が答える。
「でも、その後は見てないし……」
「二人が席を立ったのも見ていないと?」
「うーん。細かい動作は見えてないけど、移動した様子はなかったかも」
ダイニングテーブルの椅子に座ってからは動いていなかったと千鶴は話す。確か、ペットボトルを渡して椅子に座ったはずだと。
「〝誰が〟渡した?」
「え、それは分らないよ……。陽子さんも優子さんも同じ服装だったし……入れ替わってたとか言われたら自信ないかな」
あの時点で入れ替わってたいかもしれないならば、誰が誰かなど自信をもって判断できないと言う千鶴に浩也も頷く。
「兄ならば見分けることができるかもしれない。けれど、貴方の今の精神状態で自信を持って言えますか?」
とても判断できる精神状態には見えないが。隼の指摘に健司は言い返そうとするも、言葉が出ていなかった。自分が周囲を見れていなかったことを自覚したのか、唇を噛んで目を逸らす。
「二人であれば崎沢隆史を殺すことも可能だろう。片方が呼び出し、相手の注意を引き付けておけばいい。隠れて背後から殴り掛かれば」
「そんなの横暴よ! そ、それだけで、証拠にはっ」
「そうだな。状況証拠と言われればそれまでだ。だが、〝彼女〟を殺したのは君だ」
そこに倒れている〝彼女〟を殺したのは。もう一度、告げられた言葉に場が静まる。しんと耳が痛くなった。
「ど、どうして……」
「君しか考えられないからだ」
空気を裂くように優子が口を開くも、隼からぴしりと言い返された。それほどに彼は自信があるようだ。そこまで言い切れる確証というのを彼は持っている。
「何をもってそう言い切れるのよ!」
証拠を出しなさい、証拠をと叫ぶ優子に隼は一度、視線を倒れる〝彼女〟に向けてから琉唯へと向ける。
「琉唯。君は言っていたな」
「えっと……何を?」
「日野陽子の肩に火傷のような痕があると」
火傷の痕と言われてあっと琉唯は頷く。陽子の肩には痣ではなく、火傷のような痕があった。はっきりと見たのだから間違いはない。
「健司先輩。二人には生まれながらに持った痣はあるのだろうか?」
「いや、聞いたことがない」
「では、怪我をしたというのは?」
「それも知らないな……」
健司から証言を取り、隼が「肩のどの辺りだったか?」と、琉唯に問いながらしゃがみ込む。
「右肩、首に近い位置だったか。そんなに大きくはなかったと思う」
聞かれた琉唯はここら辺と首に近いところを指すと隼はTシャツの襟元を捲って見せた。
「何処に火傷の痕がある?」
えっと、琉唯が近寄ってみれば彼女の右肩、首元に近い位置に痕はなかった。綺麗な白肌をしていて、とてもじゃないがそんな痕があったようには感じられない。
「君は本当に〝優子〟なのだろうか?」
突き落とすような感覚に襲われる。たった一言で、息の根を止めるように。
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