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私という人の出来上がりかた~その4

母の事

母は私が小5の時にこの世を去った。
乳癌を見つけた時はステージ3
かれこれ40数年前の事、助かるわけもなく、手術から2年で再発、全身へ転移した。
故に私の記憶に残る母は農業をしているか、入院しているか、床に臥しているか、編み物をしているか。断片的なものしかない😭

広島の山奥で育ち、原爆の際降ってきた焼けたお札を拾った記憶があるらしい。その時母方の祖母のお腹にいたおじは原爆2世に認定されている。

看護師となり、大阪に出て勤務して、妹弟たちに学費の仕送りをしていた。ここで入院していたダメンズの父と出会うのだが、何故子持ちのバツイチと結婚する気になったかは不明。
私を産み、しばらくして鹿児島のこれまた片田舎で義両親と同居で農業をすることになる。(私なら無理)
仕事が続かない父、プライドの高い厳しい祖母、慣れない農業、聞き取れない方言、よそ者扱いとどれ程ストレスだったであろう。

ぞうさんの様になった右手を覚えているのが、今考えると乳癌のリンパ節転移による浮腫。(もっと早くに検査を受けていれば)
実家の祖父母は他界していたが、弟妹がすむ広島で手術を含めた治療を希望した。必然的にそれからの私は鹿児島で祖父母に養育される。
入学式以降8月末まで1回目の入院。
この時の母の言葉

このまま5年病気にならなければずっと一緒にいられるけど、5年の間に病気になったら、長くは一緒にいられない。

小1の私は何故か覚えている。シチュエーションは記憶にないが、5年生存について気丈に母は語っている。

結局2年後に脳腫瘍で2回目の入院
自宅でもほとんど床についていた。
その後全身への転移があり、3回目の入院。自宅に帰ってきたのは母の遺骨だった。
小5は入院先へ連れていってもらい、学校も休みがちだったが、理解のある担任だった。
何度か祖母と見舞いにいき、病院に寝泊まりした。いよいよ危ないという時に呼ばれていったが、私を見るともちなおす。でもおかしいなぁ~と思った瞬間がある。

そこにたくさん人がいるから、こんな格好は恥ずかしいから、早く出てもらって。
息苦しいから窓を開けて。

不安を募らせながら、「出てもらったから大丈夫だよ」と言葉をかけた。母の言うことに従った。
その直後隣のベッドの付き添いのお姉さんが
「アーケードで美味しいものでも食べに行こう」
と誘ってくれた。非常に行きたくない。そんな気分でもないし、遊びに来たわけでもない。
でも母は強い口調で
「折角だからいっておいで」
と言い出したらきかない。当時反抗できなかった私は後ろ髪を引かれる想いで出掛けた。
後で祖母から聞いた。
私が出た直後に急変し、母はこの世を去った。
苦しまずに息を引き取ったらしい。
私が病院へ戻ったのは30分後。
当然母の姿は病室にはなく、冷たい部屋に移されていた。

そんな中で今思えば父の支えは記憶にない。父は父で多額の治療費を稼ぐことで必死だったようだ。
私は私で生きるしかなかった。気持ちの開きは少しずつ埋められない幅となっていったのだろう。
子供なりに理性だけで生きていた。普通に学校へ行き、寝て、食べて。
平静に装うことしかできなかった。続く

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