脚猿。

「洗い立てのシャツの匂い」が同じになる事が一番実感の湧く瞬間だった。
同じ食卓を囲む事、朝起きた時に「おはよう」と挨拶する事。
それらは僕はあまり特別な感情が湧いてこなかったけれど、洗濯物の匂いが同じになるという体験をした時、なんだか心がフワッとした事を覚えている。ついでにニヤついてもいたのだろう。一人で。
「同じ釜の飯を食う」よりも「同じ洗濯槽で同じ柔軟剤を使う」の方がその特別さがある。と感じた。
それは実家の安心感に似ているからだろうか。

ともあれ、もう大分と前の事をふと思い出すし、今でもその瞬間の高揚感は忘れ難い幸せだった。

美味しい物を一緒に食べるという記憶は味覚と視覚で、言うなれば一人称。
声や匂いという記憶は聴覚と嗅覚で、こちらは対象が無ければ起こり得ない、言うなれば二人称。

振り返ってしまう声や匂いは未だにあって、それが鮮やかだったと笑えるようにもなった。
絶対に年上にしか見えなかった高校球児達をなんだか可愛く見えるようになったのはそういう事なんだろう。

最近、繁華街を歩いていると人間が動物に見えてくる事がある。
街がサファリパーク。
自由だなぁと思うし、ギリギリなバランスなんだなぁと思った。

8月6日。

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