飴玉。

昔の映像、という話を前回に書き残した。
今回は今の映像。そして、昔の人。
昔、と言うと失礼だし、この先何があるか分からへんよろしくの三木道三的な事もあるでしょう。
なので、今とんと交流が途絶えてしまった人。それを昔と呼んでみる。

こういう類のモノは忘れる事は無いけれど思い出さない様にしていたり、すっかり忘れてしまったり、都合よく改変して美化されたり、と何だか自然と其処に置いておく事を憚ってしまいがちなこういう類のモノ。
それをブワッと春一番よろしくの如くに届けてくれるSNSもなかなかの巧者だなと思う。

前置きとして、今となっては。だけど。

全ての出会いや別れに感謝をしている。
凄く運命だと思い込んだ出会いはとてもキラキラしていたし、そんな人との別れはとてつもなく嫌で、その底無しの落ち込みっぷりは心の中に宇宙を感じたし。

上記の言葉の語彙からも見れるように、喜びは頭打ちがあって悲しみは青天井に感じる性分なので、なるべく好奇心で一杯にしておきたい。

反面、これから起こるであろう出会いや別れには少し億劫になっている気もする。

また大いに逸れてしまったけれど、

あの日あの時あの場所のままでずっといれたら、幸せだったのかなぁ。と思う。
否。間違いなく、これを書き残そうとまで心奮えなかったでしょう。
そもそもそんな人達はもう周りにいなかったでしょうね。和正的な。

痛いと思った気持ちは成長痛なのかもしれないな。
頭打ちだと思った楽しい事がまだまだ沢山出てくるなら。

話がどんどん逸れていく。それでも構わないが。
こんな類の話は季節に一回。体調が良ければ毎月でも巡る脳内です。
果たして、ここに成長はあるのでしょうか。。

発端は、友達が良い顔して良い歌を歌ってた事が、とても嬉しかったという事。
そしてそれが明け方だったから。

今日はこんな気持ちのまま、歌いたいなた思う。

4月28日。

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