第0回 明日から「『百年の孤独』を代わりに読む」をはじめます
ガルシア=マルケスの『百年の孤独』をはじめて読んだ時のことが忘れられない。あれは本当に世界がひっくり返るような経験だった。現実には起こりそうもないことがつぎつぎとまるで手品ショーのようにして起こる。それでいて、かつてこんなことが私の家族にも起こったのではないかという親密な感覚が、すっかり忘れていたことを思い出したときように迫ってくる。こんなことが小説でやれるのかと私はひどく驚いたのだ。ただただずっとこれを読んでいたいと思った。と同時に、多くのひとに読んでほしい。『百年の孤独』について語り合いたい。そして、この小説についていつかなにか書いてみたいとずっと思いつづけていた。
ある日思いついたのだ。
「『百年の孤独』を代わりに読む」
ほかに読む本がないから代わりにというのではない。多くのひとが読まないのなら、その人たちの代わりに私が『百年の孤独』を読みつづけ、その経過について書こうと思った。いや、もちろん冗談だ。言っている私もその「代わりに読む」ということがなにを意味しているのかわからない。ただ、わからないながらも、なにかおもしろいことが起こりそうな気がするのだ。『百年の孤独』を読みながら、それと合わせて「代わりに読む」ということについても考えを深めたい。その中で、これまで触れることのなかった、ひとりでも多くのひとに『百年の孤独』を手に取ってもらえたらいいなと思う。
『百年の孤独』は難解だと言われることがあり、敬遠しているひとがいるかもしれない。私もその一人だった。だから、はじめての時は自分には読み通せるだろうかと恐る恐るだったし、しゃちほこばって「世界の名作」を真面目に読んだのだった。おもしろかった。しかし今回読み返しながら、実はこの小説は冗談話として読めるのではないかと気づいた。すでに読まれた方からすれば、当たり前のことなのかもしれないが、評価の定まった「名作」であることはひとまず忘れて、肩肘張らずに愉しみながら読みたい。そうやることでもっともっとおもしろく読めると思うのだ。
『百年の孤独』を「代わりに読む」にあり、なんとなく決めていることがある。日本語訳で全体が500ページほどあり、それらは20の章(のようなもの)に分かれている。毎回、この章(のようなもの)を1つ分ずつゆっくりと読んでいきたいと思う。その際に心がけようと思っているのは、
・冗談として読む
・なるべく関係ないことについて書く(とにかく脱線する)
ということだ。なぜそうするかの目論見がいちおうあるわけだが、それはまた追って述べたいと思う。
さて本文だ。冒頭は次のようにはじまる。
「長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思い出したにちがいない」([1]p.12)
いったいアウレリャノ・ブエンディア大佐とは誰なのか。父親のお供って、どこへいったというのか。そして、彼は銃殺隊の前に立つはめになってしまうのか。というわけで、「『百年の孤独』を代わりに読む」明日からはじまります。どうぞよろしくお願いします。
(第1回は明日8月10日(日)午前9時ごろに公開予定です)
参考文献
1. ガブリエル・ガルシア=マルケス,『百年の孤独』(鼓直訳), 新潮社, 2006
2. Gabriel García Márquez, “Cien años de soledad,” 1967
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