「タイパ」の先
昨年からよく考えていることがある。
それは、効率と無駄についてだ。
タイムパフォーマンス=「タイパ」という言葉をよく聞くようになった。
かけた時間に対してどれだけのリターンが得られるかという指標で、目的を達成するために時間短縮できればそれがいい、ということだ。
倍速で映画を視聴すれば、半分の時間で映画のストーリーを知ることができる。電子レンジを使って料理を時短するみたいに。
曲のギターソロを飛ばして聴くなんて、ちょっと笑えないエピソードも聞く。
歌詞=曲の意味を理解するなら、ボーカル以外は無駄、というわけだ。
少し乱暴になるが、効率を「時間」と「お金」の二つに分けて考えてみる。
(なにかのリターンはいつもお金になるとは限らないが、あらゆるモノとサービスが金額という尺度で測られる資本主義経済において、リターンはお金であるといったんは仮定しておく)
戦後の日本経済、企業においては売上を増やすためにとにかくマンパワーと時間をかけた。
残業をして生産を拡大し、モノとサービスを増やしてお金を稼ぐ。
人口が増え、経済が右肩上がりで成長し、モノとサービスが人間の欲求を満たしている時代はそれでよかった。
しかし人間の欲求が頭打ちになる瞬間があった。それが、バブル経済の崩壊だ。
経済学的には色々な要因が挙げられるのだろうが、バブル崩壊は、結局は人間の欲求に還元することができる。
テレビや車、冷蔵庫が欲しい。
その欲求が満たされたら、今度はカラーテレビ、高級車、鮮度が保てる冷蔵庫が欲しくなる。
では、その次は?
「あれ、実はそんなに機能や装飾って要らなくない?」
なにもないときにモノやサービスを手に入れるときが一番欲求が満たされる。
機能の向上や見栄のための消費では、欲求の満たされ方は緩やかになり、いずれ頭打ちがくる。
十分快適な生活が送れるようになったとき、欲求のグラフは下降を描く。
近年話題になったミニマリストや時短勤務は、そういった意識の反映だといえる。
もう余分なモノやサービス=リターン=お金は必要ない。
そうなったら、労働の時間を減らし、自由な時間を求めるのは当然のことといえる。
企業や資本家としてもこれまでどおりの右肩あがりの成長曲線を描けない以上、コストカットで利益を確保せざるを得ない。
資本と労働者の利害が一致するなら、お金と時間の関係は比例しなくなる。
つまり、使う時間を減らしてお金を確保する。効率の良さを追求してリターンを得る、というわけだ。
パソコンからはじまりスマートフォンになったパーソナルネットデバイスは効率を上げるには最適な道具だ。
手書きだったものが文章作成ソフトや表計算ソフトになり、クラウドには無数のエンタメ作品があっていつでも消費できる。買い物はたった数クリックで完結する。
これまでかかっていた時間の数十倍の効率で、リターンを得ることができる。
ところが不思議なことに、これほどまでに効率化された社会で、なぜか私たちの余暇の時間は増えていない。
むしろ、仕事ややるべきタスクはどんどん増えていく。
タイパより前にあったコスパという考え方。
それを追求し、2000円ほどで良質な服を買えるようになったが、非人道的な労働と環境破壊が加速した。
定食を400円で食べられるようになった代わりに、安い賃金で働かざるを得ない人は消費を諦め、経済は30年も停滞している。
そう考えるなら、コスパの追求は失敗したといえるだろう。
では、タイパの追求はどのような結果をもたらすのだろうか。
例えば、時間短縮を最優先するなら、人と話すときに余談は要らない。いきなり本題から入り、数学の証明問題を解くように「今日の議題は3つあり、一つはこれで、次にこれ」といったふうに無駄なくまとめられる。
話の途中で質問や脱線があれば、当然タイパは下がるので、聞く側は一才口をさしはさまない。
片方が一方的に喋り、それが終わるともう片方が話す。最高にタイパがいい。
しかしそこには「私」がいない。
私はこう思う。私はこう感じた。
そういったものが一才切り捨てられ、情報の伝達だけが行われる。自分の存在意義がない。当然、承認欲求は満たされない。
増え続ける仕事やタスクに追われる一方で、自己の存在意義は希薄化していく。
AIの利用はそれに拍車をかける気がしている。
タイパの追求の先には、限りなく没個性的な未来が待っているような気がしてならない。
無駄の中にこそ、「私」を満たす感覚があり、自己が承認された先に、豊さを感じる土壌が生まれると思うのだ。
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