舞台『桜文』の感想は書けない。
お断り
本当に感想を書くことをためらいます。私がこの作品に対して言葉を紡ぐことが許されるのでしょうか。
感想、と書きましたが、そもそもこの作品に対して「感想」とやらを書くことは野暮であり、作品の内容に反することであり、言い換えるなら桜雅と霧野が紡いだ言葉に反することであり、こうして私が今こうして勝手に作品を観て、それを「翻訳していること」そのものが作品を本当に見たのならばためらわれるべき一種の悪行といえるでしょう。
どの瞬間を切り取ったって、それはそれだけで意味をなさないものです。野暮を承知で言うならば『桜文』とは、桜雅と霧野の物語でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。
そこにあったのは、想いの連鎖であり、欲望の連鎖であり、嫉妬の連鎖でもあるかもしれない。(もちろん物語ではあるが)物語ではない、ほんとうの感情の連鎖でもあるかもしれない。
もし、観ることをためらっている人がいて、こうした感想を先にググって、評判を調べてから観に行くような方がいらっしゃるのなら、それは本当に野暮なので辞めてほしい。
よかったよ、とも、悪かったよ、とも言いたくない(そんな安易な言葉で表せる物語ではない)ので、観たいなら観てほしい。できれば観てほしい。ただし、何も知らずに行ってほしい。ゆえに、ここでブラウザバックしてほしい。
それでもなお、私がこうしたnoteを書かずにはいられなかったのは、それほどまでにこの作品に、桜雅、雅沙子、仙太、霧野、そして「吉原」を生きた人に引き込まれたから。罪深いな、と思いながらも、キーボードの手は止まらない。
この心に残った形容できない感情をどうしたらいいのか私はわからない。この感情から抜け出せない。
※※※
野暮を承知で
せめても、この作品に敬意を払った形で、感想を記すにはどうすればいいのか。考えた結果、やはり手紙を書くしかない。公式に提供されているメッセージアプリの返信機能を使い、桜雅演じる久保史緒里さんにメッセージを送った。
私が彼女を推しているがあまり、この感情がいわゆる「推している」という感情と等しく扱われ、ある意味薄く扱われる可能性があることが本当に歯がゆいが、仕方ない。
伝える事そのものが野暮を承知だが、本当に野暮である。
やっぱり、私に『桜文』の感想は書けない。送ってしまったが、後悔した。この感情を正しく書き記せるわけがない。それほどまでに世界として完成されていた。
そんな世界を作った、脚本の秋乃桜子氏、演出の寺十吾氏、キャストの皆様に改めて感謝を述べたい。
トトム
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