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箕輪城跡整備工事成果説明会

 2024年5月18日に開催された説明会に参加してきました。発掘調査の成果について埋め戻しをする前に説明会を開催することが多いのですが、今回のものは、既に発掘調査後の埋め戻しが終わっており、発掘の成果に基づいた城跡の整備状況についての説明会でした。
 個人的には、前回箕輪城を訪問したのは2017年だったので、いろいろと整備もすすみ、変わっていることもあるだろうということで、この機会に再訪しました。


本丸西虎口の石垣

 今回の目玉は、令和3年度から始まった、本丸西虎口の石垣の復元工事の完成でした。この虎口は「蔵屋敷」と呼ばれる曲輪と橋で接続されていて、大手側から虎韜門を経由して本丸へ入るルートに当たります。このルートは、虎韜門、鍛冶曲輪、三ノ丸など、箕輪城内でも比較的石垣が多くみられるルートになっています。
 この虎口では、発掘調査で数段の石垣と礎石や排水溝などが検出されています。この発掘調査の成果をいかして、石垣および城門の再現をすすめていくプロジェクトが進行中で、今回は石垣部分が完成したことから説明会を開催することになったようです。
 この石垣は、発掘調査で出土した本物ではなく、GRC(ガラス繊維補強セメント)を使用してつくられたレプリカと採石場で選別した自然石(安山岩)を組み合わせて再現したものです。本物の礎石や石垣などは、地中に保存されているということでした。

本丸西虎口の石垣(木橋のある西側から)
本丸西虎口の石垣(本丸北側土塁上から)

 西虎口の石垣の特徴は、以下の3点です。
  ① 転用石の割合が多い
  ② 野面積で、角は算木積になっていない(比較的古い工法)
  ③ 縦方向に目地を通している珍しい積み方をしている

高崎市教育委員会文化財保護課の職員による説明のようす

  まず、上の写真でも確認できるように、形の整った方形の石が多く使われています。これらは石塔や石仏を石垣として転用したもので、このような事例は各地で見られます。有名なものは、福知山城(京都府)の天守石垣や大和郡山城(奈良県)の天守石垣あたりでしょうか。ただし、使われている石が少ない割には、数多くの転用石が見られます。現地での説明によると、発掘された120石中50石以上が転用石だったとのことで、転用石の使用比率の高さは、他の城跡では例がないとのことでした。

梵字の刻まれている転用石(GRCによるレプリカ)

 転用石の多くは、五輪塔の最下部である「地輪」とよばれる部分が使われています。そのため、一部の石材は見える部分に梵字が刻まれているものもありました。
 積み方は、石をほとんど加工していない「野面積」となっており、角の部分は江戸初期の石垣に見られる「算木積」にはなっていません。もともと東日本では石垣を積む技術(習慣?)が発達していなかったこともあり、同時代の城郭と比較すると古い工法で積まれたのではないかということでした。
 また、方形の「地輪」を多用していることも影響していると思えるのですが、縦方向に目地を通して積んでいる部分も見られます。完成した石垣の強度を考えると、あり得ない積み方だということですが、単に技術が未熟だったという訳ではなく、高く積むわけではないので、石垣の強度を考慮する必要もなく、大きさの揃った「地輪」の石を揃えて積んだものと思われます。 

排水溝(暗渠)の出口にも梵字が刻まれた石が使われています。
本丸西虎口・南側の排水溝
本丸西虎口・北側石垣の角部分(手前の石は門礎石)
転用石を多用した部分は、縦方向に目地を通した積み方になっています。

本丸・蔵屋敷間木橋

 一足早く再現された木橋ですが、こちらについて発掘調査で見つかっているのは柱穴だけです。そのため、橋の形状などはわかっていません。同じ時代に他の城郭で架かっていたことが分かっている橋を参考にして、当時の雰囲気を再現したものになっています。近世の城であれば、絵図などで橋の形状もわかる場合があるのですが、箕輪城は高崎城築城の際に廃城となっているため、絵図などが存在しないので「復元」は不可能なのだということでした。おそらく滝山城や八王子城(ともに東京都)にある本丸に架かる橋のような構造だったと想定しているみたいです。ただし、城を訪問した人が通れるようにするために、中世のような雰囲気を壊すことなく「歩道橋」の安全基準を満たさなければいけないという苦労もあるようです。

本丸・蔵屋敷間木橋(蔵屋敷曲輪から)
本丸・蔵屋敷間木橋(堀底から)
説明会当日は、地元の甲冑隊の方々が出陣されていました。

 数年後には、今回完成した石垣の上に門が再現され、これらの風景も変わっていくと思います。発掘調査で、礎石が4石見つかっており、その配置から門は高麗門であったのではと推測されているようです。土塁へと続く板塀も再現されるようで、完成したら一層、中世の城郭っぽい雰囲気が出てくると思うので楽しみです。

郭馬出西虎口門

 箕輪城内で最も早く、中世の姿を再現してできた建物が、郭馬出西虎口の櫓門です。2002年度の発掘調査によって、柱の門を支える礎石が8石発見されたことから、2階建ての櫓門と推測されました。屋根から落ちる雨水を受けるための排水用の溝なども良好な状態で発見されたことで、櫓部分が前面に張り出す形となっていて「石落とし」があったと推定されました。
 また、地面が硬く踏みしめられていた部分があることから、中央の大扉だけでなく、脇戸があったことも判明しました。
 さらに、瓦の出土がなかったことから、屋根は板葺きだったと推定され、現在のような形で中世的な虎口門が再現されました。

郭馬出西虎口門(西側から)
二ノ丸と続く土橋、郭馬出、郭馬出西虎口門(二ノ丸から)
地元の甲冑隊の皆さん、ここでもサービスショットを提供していただきました。

 門の細かい意匠については不明な点も多く、推測の域を出ないので、完全な「復元」とは言いづらいのですが、発掘調査の成果と各地の現存建築を参考にした推測のもと「再現」を試みることで、中世末期の雰囲気を訪れた人たちに感じてもらえるように努めているとのことでした。
 そのため、復元的ではないところについては、違和感を感じてもらえるように、敢えて現代的な工法で造っている、というこだわりがあるようです。郭馬出側の土塁上に上がる階段(下の写真)は、当時あったかどうかは判明していませんが、門の維持管理のために必要なので、現代的な石材加工技術を用いて造っているということでした。
 なお、この門の整備には2014年から2016年までの3年間で、約1億円の費用を費やしているということでした。前出の本丸西虎口の再現には、インフレや人件費の上昇などの影響があるので、もっとかかってしまうのではないかと考えられているようでした。

現代工法を用いた箇所は昔はなかったであろうと思われるところです。
上の階段で土塁上に上がると、木俣曲輪の先に高崎市街が一望できます。

その他の整備事業

(1)樹木の伐採
 堀の深さを体感してもらうために堀底に繁茂していた樹木を伐採したり、山城ならではの眺望を確保するために曲輪内や切岸の樹木を伐採したりしています。
(2)本丸土塁の復元
 かつては失われていた本丸西側の土塁を発掘調査に基づいて復元しています。南虎口の近くの土塁には土留めの石列が発見されたので、それも再現されています。一方で、本丸東側の土塁は、削られてしまった部分もありますが、現存の土塁です。

本丸南虎口付近(石碑近く)の復元土塁
本丸東側の現存土塁

 今回は7年ぶりの訪問でしたが、本丸の西側に木橋が架かったり、本丸西虎口の石垣が復元されたり、本丸の土塁が復元されていたりと、発掘調査の成果に基づいて少しずつ城跡としての整備がすすんでいることが実感できました。
 木造の建築物を再現している城跡は全国にありますが、維持管理ができずに取り壊してしまうケースも見られます。箕輪城は日本100名城でもあるし、高崎市の管轄でもあるので大丈夫だと思いますが、さらに城跡としての魅力を発信し続けてもらえると嬉しいです。

【アクセス】
 高崎駅西口よりバス「伊香保温泉」行きで約40分
 「東明屋」バス停下車 徒歩10分で搦手口駐車場

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