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小幡城(茨城県) 城郭訪問記#002

 中世城郭として、遺構の残りが良く、その土木量が圧巻であると評判の高い小幡城跡(茨城町指定史跡)を訪問しました。数年前から、ずっと訪れてみたかったのですが、下調べしていたバス路線が朝夕のみの運行になってしまい、公共交通機関では訪問不可能なのかと諦めていました。ところが、昨年末に別のバス路線があることがわかり、ちょうど水戸での展覧会を見がてら、訪問することにしました。


アクセス

 水戸駅から関鉄グリーンバス「茨城空港行き」に乗り、「秋葉」バス停で下車しました。ここから城跡までは、徒歩で20分ほどでした。農地の中の舗装されたほぼ一本道を歩いて行く感じで、城跡が近くなってきたところには案内表示がありますので、迷うことはないと思います。
 この日は、行きは「水戸駅(12:00)→秋葉(12:48)」のバス、帰りは「秋葉(15:15)→水戸駅(16:05)」のバスを利用しました。城跡の見学時間を考えると、帰りのバスがちょっと遅いように思えますが、本数が少ないので仕方がありませんでした。余裕のある分、のんびりと田園地帯を散策しながら城跡へ向かい、城跡もジックリと見学できました。ただし、バス停や城跡付近には、コンビニや飲食店はありませんので、公共交通機関を使っていく場合には、ご注意ください。

小幡城跡への案内表示
入口にある現地の案内板(赤い矢印があるところが散策路です)

堀底道と土塁(見どころ①)

 土の城として名をはせる小幡城の見どころの第一は、もちろん巨大な土塁と空堀です。見学は、基本的に堀底道を歩くようになりますが、両側にそびえる土塁の高さが圧巻です。堀底も狭いので、両側から攻撃をされたらひとたまりもありません。
 さらに、この土塁と空堀の配置がとても技巧的で、進入する敵を撃退するポイントがいたるところで確認できます。現在は、一部の土塁を切り崩したり、立ち入り禁止区域を設けたりすることで、本丸をぐるっと1周するようなルートが整備され、案内表示も設置されているので、迷うことなく見学できますが、この城が機能していたころは、堀底道が迷路のようなって、攻め手を苦しめたことでしょう。

土塁(左)と六の郭(右)の間の堀
本丸(左)と二の郭(右)の間の堀
本丸(右)と三の郭(左)の間の屈曲している堀
六の郭(左)と七の郭(右)の間の堀(堀底は立入禁止区域)
堀底道は迷路のようですが、案内表示と立入禁止区域のおかげで迷いません。

本丸井戸(見どころ②)

 小幡城内では、2か所の井戸が見つかっていますが、そのうちの一つが本丸にあります。この本丸井戸には、小幡城が落城した際に、姫が金の鳥を抱えて、身投げしたという伝承が残っているそうです。
 また、本丸は南側にある四の郭との接続部以外には、相当の高さの土塁が築かれています。

本丸井戸跡(背後は本丸土塁)
本丸土塁(本丸の内部から)

土橋(見どころ③)

 土橋は、小幡城内では2か所確認されています。整備された見学ルートで見られるのは、四の郭と五の郭を結ぶ土橋です。現地の案内板には「土橋は通路としては便利であるが、城に立て籠もって戦う場合は、逆に不利となるため、状況によっては削り取られたのであろう」と記されていて、他にも土橋があった可能性を示唆していました。
 写真の土橋は、城外からつながる堀を遮断する形になっていたので、堀底を通って侵入してくる敵兵を足止めする役割も果たしていたのではないかと現地では感じました。

土橋(堀の内側から)
土橋(四の郭から)

変形武者走り(見どころ⓸)

 本丸と六の郭の間に設けられた二重空堀の中間にある土塁が「変形武者走り」と名付けられています。小幡城にのみ見られる独特の構造で、土塁上には凹型(堀状)の溝が走っています。一つの説としては、堀底から侵入した敵兵に見つからずに土塁上を移動し、攻撃するための機能ではないかと考えられているようです。
 また、この変形武者走りにつながる土塁にある高まりは「櫓跡」と考えられています。この「櫓跡」も含めて、小幡城には堀に突き出た「折邪(おりひずみ)」がいくつか設けられていて、正面だけでなく側面からの敵にも攻撃を仕掛けられるような仕組みとなっています。

幅のある土塁の中央に凹型の溝がつくられています。
周囲の土塁より高くなっているところが櫓跡で、変形武者走りはその後方にあります。

小幡城の謎

 小幡城は、ここまで紹介してきたように、遺構がしっかりと残っていて、往時の姿をとどめているにもかかわらず、築城者など不明な点が多い、謎の城でもあります。
 応永24年(1417年)に、大掾詮幹(だいじょう・あきもと)の三男である義幹(よしもと)が築城したという伝承がありますが、信憑性は低いと考えられています。発掘調査により、築城時期はおよそ15世紀代だと判明していますが、築城者については特定できていません。
 16世紀には、江戸氏に従属していた勢力が在城し、小田城(つくば市)の小田氏、府中城(石岡市)の大掾氏との対立の最前線であったと考えられています。小幡城が複雑な構造をもつ城になったのは、「境目の城」としての性格を持っていたからだと考えられています。
 天正18年(1590年)、豊臣秀吉に常陸の統領として認められた佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)が領国の統一を果たすと、小幡城の戦略的価値は低下したため、廃城になったと考えられています。

七の郭にあたる部分には、東関東自動車道が通っています。

 自動車道の建設にあたって、平成17年から平成19年にかけて大規模な発掘調査が行われました。このとき、7の郭からは堀や土塁、小皿や鍋などの土器の破片、埋葬された人骨などが発見されています。詳細は『茨城県教育財団文化財調査報告第314集』(https://sitereports.nabunken.go.jp/11466)で確認できます。

小幡城の鬼門の方位に鎮座している香取神社
小幡城遠景(東側から)

訪問日:令和6年(2024年)3月3日
参考文献:『関東の名城を歩く(北関東編)』吉川弘文館

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