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後楽園(野劇)のお話/"その①"

さて、予てよりいつかは書きたい(残しておきたい)と思っていた、「後楽園ゆうえんち/野外劇場」時代のお話。約8年弱に渡る思いの丈に何から書き始めてよいのやら、あまりに膨大な文量になるのでは…?(汗)、、と尻込みしていましたが、、機も熟す頃合い、ここに少しずつでも書き残しておこうとペンを…、もとい、、スマホを取りました(笑)

脈絡が崩壊する可能性うけあいですが(笑)、まだキラキラしている宝物の記憶達を振り返りつつ、まずは"その①"、書き進め始めてみたいと思います。

心の中からは永遠に消えない、たくさんの、それぞれの人生と思いが詰まったあの場所に、同じような"想い"をお持ちの方、演者・観客、関係者・そうでない方に関わらず、共に目を細め、振り返って頂ければ嬉しいです。


って、早速前置きが長くなりましたので(笑)まずは写真から。♪(↓)

もう写真が大分劣化してきてしまいましたが(汗)、、

僕の野劇デビュー、ファイブマン第1期。(*写真は第2期時)

年齢にして19歳になって間もなかった頃だと思います。いや、、18かな…?? "コースターレッド"とオリジナルの兵隊の二役でした。無論、当時の僕の身分や技術レベルからして、恐れ多い大役も大役でした…。。

ジェットコースターに関しては、「…命綱のようなものは何もないのか…。。。果たして本当にお面をつけて立てる日が訪れるのだろうか…汗」というくらい、腰が引けたのを今でもよく覚えています。でも不思議と、「絶対ここでやっていくんだ…」という(根拠のない笑⁈)強い気持ちが、その腰をピンと伸ばさせてくれたのも、同様に覚えています。妙ですが、ここでの未来に、あらゆる面でマイナスのビジョンは全く思い浮かばなかった。

今考えれば、まだ立ち回りの"た"の字も、キャラクター魂のいろはの"い"すら知らない自分が、知人ひとりいないあの「聖地」に、よくひとり飛び込む気になったなと…、、いや、身の程知らずもはなはだしい(汗。。)笑。。

2年間いた倉田アクションクラブを退所し、高校卒業を待たず、"WILD ACTION CLUB"という、嘗てあったキャラクターショー中心の事務所に入所させて頂いてからすぐのことでした。

以前から少しご縁を持たせて頂いていた、当時JAC/14期の岩田時男さんにご相談させて頂き、「後楽園がやりたいのなら」とご紹介頂いたことがきっかけでした。

岩田さん、その節は本当に本当にありがとうございました!

(*写真は第3期時)


僕がキャラクターショーにはじめて関わったのは、ライブマン(倉田AC入所時/当時まだ高校生)。これがヒーローものを志す決め手になった訳ですが、この頃あたりの自分の周りには野劇のショーに憧れる者は多かったものの、、「実際関わることになったらとても厳しそう」「だから観てるだけの方がいい」「参考に、真似ているだけで十分」、、という意見が大半でした。。

でも僕は、どうしてもこの舞台を、自分の足で、現実に踏んでみたかった。そしてそこにいる憧れのひと達は、ほんとにどんなひと達なのか、とても知りたかった。

いずれその方々と、恐れ多くも肩を並べ、シールド越しに同じ景色を見ることが出来る日が来るとは、無論、この頃の僕の頭の中には皆無でした。


まだ出演者ではなく、お手伝いとしてステージ裏から関係者として迎えて頂いた、ターボレンジャー最終期の千秋楽ショー終了後、ステージ上に集まる面々の中、汗もまだ引かぬまま赤い衣装を半分脱いだ高岩さんの、

「秋山ーーーー!来期から頑張ろうな〜〜!!」

の力のこもった声も、今でもはっきり覚えています。ほかのみなさんの温かさも。

向こう約8年間ずっと、次の土日が来るのが楽しみで仕方なくなった。


30年前のお話。


果たして業界も人生も初心者マークのこの少年に、どんな青春のステージが待ち受けているのだろうか… 笑

そして抗わなければならなかったもの、改めなければならなかったこととは…?


続きはまたゆっくり。


〜…"その②"へ。


(p.s. やはり信条的に今後も有料記事にするつもりはありませんのでご興味あればまた覗いてみて下さい♪)

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