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スカヨハ攻殻感想

ハリウッドで実写映画化された、スカーレット・ヨハンソン主演の攻殻機動隊をみてきた。結論から先にいうと、大変良く出来ていて、「攻殻機動隊の新作」たるにふさわしい作品だったといえる。以下ネタバレ込み感想。


まずビジュアル面に関しては、事前に公開されたトレーラーでだいたいわかると思うが極めてよく出来ている。アニメ『攻殻SAC』よりはだいぶ雑然としていて、ブレードランナーのようなホロ広告に溢れアジア風に雑然とした、押井版『攻殻機動隊』のテイストをよく再現していた。

この映画を語る上で避けては通れないのが、これまでに作られてきた攻殻機動隊シリーズに対するオマージュで、押井版攻殻同様「少佐」の義体を建造する工程でたどるオープニングに始まり、料亭突入シーンやスラム街でのチンピラとの戦闘などの名シーンの再現、そしてエンディングクレジットの曲は押井版オープニング曲の「謡」のアレンジ曲で締めるまで、とかく原作愛を感じさせる構成であった。(謡をEDに持ってくるなら、「遠神恵賜」のフレーズで締めてほしかったところはあるが、ちょっと贅沢か)

オマージュシーンも、ただ同じ画作りをねじ込むのではなく、スカヨハ攻殻のストーリーに合わせたシーンで盛り込まれているので、各シーンから「ここがやりたかったのだな」という意思は感じるが、それでいてシーンのためにストーリーを捻じ曲げているということはない。

『ブレードランナー』や『ニンジャスレイヤー』などに見られる胡乱な日本表現は、攻殻機動隊にはほとんど存在しないがスカヨハ攻殻ではチラチラ見受けられたのは個人的には好きなポイント。クラブ突入シーンの「カクテル高めろ!」だとか、客がホロオスモウ(プロレス)を眺めながらサケを飲んでるシーンはいろいろと高まるものがあった。


ストーリーだが、事前の情報で「主人公の名前は素子ではなくミラ」「白人主演で大丈夫か」「女ロボコップでは」などと不安視するものが散見されたが、これらは全て杞憂だったと断言出来る。

まず、これまで作られた攻殻機動隊シリーズは、既に義体化が高度に普及し、少佐のような全身義体もあれば、脳みそが入った鉄の箱にただの棒の脚部とマニュピレータがついただけのジェイムスン型のようなものまで存在する世界だが、スカヨハ版攻殻に於いては部分義体や電脳化こそ進んでいるものの、全身義体は少佐が初めて成功したサイボーグである。(このあたりから『SAC 2nd GIG』を感じた人は良い勘をしている)

そのため、「自分は本当に人間なのか、ロボットなのか」というアイデンティティ・クライシスは少佐と彼女以外では決定的に異なる段階であり、押井版では深くゴーストを追求しながら求めていた自分のアイデンティティも、もっと直接的に「自分の記憶」や「顔の感触」という形で語られる。しかし、これは単にこの映画の表現が浅いことを意味するのではないと思う。即ち、押井版では多くが似たような悩みに直面しながら折り合いをつけている中、少佐は自分のアイデンティティを追求するため深く形而上的に掘り下げる必要があるわけだが、スカヨハ版はそこまで潜るまでもなく、自分は他人に比べてあやふやであることを思い知らされる世界である。3歩先の未来を描く押井版と、2歩先の未来を描くスカヨハ版の違いということだ。

過去シリーズでは超然とした存在へと昇華していく「少佐」だが、スカヨハ版の「少佐」は明確に自分の過去を取り戻し、そしてアイデンティティを確立して映画は終わる。ここで明確に「人間のアイデンティティとは」という問の答えを示していく部分はルパート・サンダース監督の作風なのだろう。あるいは、ハリウッドという舞台で映画を出していく上で、こうした方が受けがいいということなのかもしれない。

今回の実写映画化にあたり、それぞれのキャラクターは基本的に原作に準拠するように作られているが、荒巻役のビートたけしは完全にビートたけしだった。『JM』のたけしであり、『アウトレイジ』のたけしである。ハンカ社の刺客をことごとく返り討ちにし、「狐を狩るのに、兎をよこすな」と吐き捨て、単身ハンカ社に乗り込み社長に引導を渡すたけしはあまりにも強い。少佐の比ではない圧倒的なヤクザ的強さである。ヤバすぎる。

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