「練習」をするのは億劫だ。

「練習」をするのは億劫だ。
何しろ銃弾は貴重だと言われているのに、それをくすねるようにして貯めておいて、それでやるのだから。
 やっているところを見られるのもよろしくない。もっと発射音が静かならいいのに。あるいは、もっとずっと静かな森の中で、薬莢がどこに落ちたのかも気にせずにずっとずっと撃ち続けたい。そのときはどんな発射音も静寂の中に美しく遠く響くだろう。人目を避けることも、敵の目を避けることもないだろう心地よさ。

 なんで自分が練習を続けるのかが分からない。ただ、まるで銃が自分の一部のような気がして、任務がなくてしばらく撃っていないと苦しくなる。せめて手入れのために触っていたい。任務が生き甲斐を与えてくれるのは事実だ。「成果」を出せば、引き続き任務にありつける。任務にありつくことができれば、銃を手放さなくて済むーー銃を撃ち続けることができる。

 成果を出すというのはようするに私の放った弾丸が相手に命中することだ。相手を役立たずの足手まといにすることが理想的だが、殺してしまうことも多い。私は私の生き甲斐のため、多くの生命を奪った。残酷なようにも思えるが、それについては考えないことができる。最初に殺した時から考えなくて済んだし、それ以来考えないようにしたら、今まで一度も考えなくて済んだのだから不思議なものだ。きっとみな家族もいれば愛する人も、彼に死なれたら困る人もいた。それを考えないことができるのはありがたい。

 私が仕事で敵を狙う時は、常に傍らに観測員がついていてくれる。当局の配慮かそれとも風紀上のことか、観測員はいつも女性だ。
それで、彼女はスコープごしの小さな世界に集中している自分に代わって周りを見張り、大きな視野からの眺めを教えてくれている。はるか遠くの現実感のない世界で死神の鎌を正確に振り下ろそうと少しの振動も起きないようにじっと目をこらして集中している私に代わり、現実の私の周囲を見てくれている。
 ただ、同時に私を監視している、ということも私には分かっている。無理もない。誰もが生きたいと願う。誰もが生活を願う。生き続けたいと願う。よりよい生活を得たいと思う。愛する人を得たいと願う。そんな中でただただスコープごしに人を撃ち続ける日々を望む私はなんだろう? 殺すとか殺さないとかを気にも留めないくせにただただ人を撃ち続けるというのは。当局が私を利用すると同時に私を警戒する気持ちは分かる。

 だから、長く私とペアを組んだ観測員が自殺したときは驚いた。彼女は私に「これ以上嘘はつけない」と言った。「私はあなたを監視している、不穏分子として」と。もし私が抹殺されたら、私のせいだ、耐えられない、と。そして、それを述べた後、ピストルを自分の頭に当てて引き金を引いた。私はスコープごしに何度も見た、人間の頭に銃弾が当たり、脳漿が反対側から弾け飛ぶところを初めて間近で見た。私はとりあえず当局に彼女の自殺を報告したが、当局の尋問に対して私はありのままに彼女の言ったことを述べた。尋問官は複雑な顔をしていたが、事実の確認をして調書を取る以上のことはしなかった。

 そして私はしばらく勾留された。勾留されて困るのは銃に触れないことだ。1日触らないだけで、自分の身体が錆びついてしまうような感覚を憶える。以前、同僚に「なぜあなたはそんなに頻繁に銃の手入れをするのか」と聞かれたことがある。そんなにしたって何か変わるわけではないでしょう?と。自分は苦笑しながら、癖だから、と答えた。自分の触っていない間の私の銃のことが心配だ。

 残念ながら私の銃弾は生き物に当たらなければならない。訓練用の標的に当てるのではダメなのだ。常に生き物を必要とする。なのに、私がこんなにも銃を撃つものだから、そのためにたくさんの人が死ぬ。私が生きるために撃つのだとしたら、私が生きるにはなんと多数の犠牲が必要なのだろう。とりあえず私にとって人間というのは撃ち甲斐のある生き物だ。

 戦争が終わってしまったらどうしよう? 私は撃てるものがなくなるだろうか? 私はきっと山へ行く。銃の音が果てしなく吸い込まれていくであろう山へ。そして何か生き物を撃ち続ける残酷な狩人になるだろう。この世から銃弾がなくなるまで。
 あるいは戦争が終わるまでに、私がこれまでに撃ってきた数え切れない者たちの償いに、私の生命も召されるだろうか?

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