生き残るということ1……優生論批判

ドーキンス『利己的な遺伝子』を読んだせいか、淘汰の考えについていろいろ考えている。

なかでも、「生き残る」ということの意味である。
ダーウィニズムにはじまる淘汰は、古くは「強者が生き残る」という意味で間違ってとらえられ、やがては「適者生存」と訂正された。「生き残ったもの=環境に適したもの」という観念はしかし、生き残ったこと、生き残ること、生き残ろうとすることに、過度な正当性を与えてしまう。

ヒトラーのナチスドイツは、ドイツ人の「生存領域」を求めて東西に領土を拡大していった。ユダヤ人は「劣った人種」として最初は辺縁に追放するつもりでいたが、ソ連侵攻が停滞してそれができなくなり持て余されるようになると虐殺された。もちろんそれに先んじてもっと分かりやすい劣った人種、つまりロマや精神・身体障害者、犯罪者なども虐殺された。
たぶん、それらには「生き残るために必要」という言い訳が存在したのであろう。実際、「生存領域」という言葉は生き残るための場所という含意がある。自分たちの生存のために、「役に立たない障害者」「害をなす犯罪者」を排除する、さらには「自分たちとは異なる民族で、害さえ与える民族」つまりユダヤ人を辺境に追いやり、今後増え続けるドイツ人のための生存領域を主に東方に確保する、これがヒトラーの、ナチスの考え方だった。

ナチスドイツが優生論を支持したのはよく知られている。ユダヤ人などを迫害する一方で、優良なドイツ人の選別、価値付けなども行っていた。現在ならば馬鹿らしいと思えるが、頭骨の形状、瞳や髪の色、などからアーリア人度(!)を計測し個々の国民をランク付けしたりしていた。親衛隊はこのうえなくアーリア人度が高いとされた金髪碧眼長身の人間で占められた。
ヒトラーにとってはなによりも人種が、つまり生物学的な区別が、敵と味方を分ける基準になった。もっとも、なにをもってアーリア人とするのか、ユダヤ人とするのか、ナチス政権時代のうちにも混乱があったようだ。現代であればさらに混乱するに違いない。遺伝子解析技術は、厳密な意味での「人種」という区分を亡き者にしてしまうだろう。

現代の日本でも、ある種の優生論に通じる考えを持つ人々がいる。2016年、障害者を「不幸な存在」と断じて虐殺してしまった津久井やまゆり園事件の加害者は、優生論の持ち主と言えるだろう。あるいは、2018年に「LGBTを生産性がない」と述べた議員らも、子どもを産むことを生産性に結びつける考え方が優生論にかなり近い。なぜなら直接言及こそしないもののそこでは自動的に、子どもを産めない女性たち、経済的もしくはなんでもいいが何かの理由で子どもを産まない女性たちをも、「生産性がない」と言っているようなものだからだ。優生論は血統をよりよくするために、「子を産める男女」を必要とする。そして、そうでないものは「生産性がない」として貶めるだろう。

そろそろ僕のテーマ「生き残るということ」の意味に戻って考えたい。社会的な動物である人間にとって、生き残ることは他の生物におけるものとは意味が違う。ある個体が生き残ることは、生物学的にその遺伝子がすぐれている、または環境に適応していることのみを意味しない。それ以上に受けた教育や思想、属しているグループがものをいう。
淘汰が起こるのはまさにそうした領域においてである。
そして、ドーキンスの考える遺伝子が利己的であるくらいには、そうした社会的要素ードーキンスがミームと名付けたものーも利己的であり、自己の複製をできるだけつくり、それによって「生き残ろう」とする。繰り返すが、もし生物学的に優良な遺伝子を残そう、という考え方を持つならば、ナチスと同じような袋小路ーすなわち何をもってアーリア人というのか、何をもってユダヤ人とするのか決定不可能になるーに陥ることになる。天皇の男系を保持しようとしても、そこにはしばしば天皇家以外の女性、ときには桓武帝のように庶民の女性の血が半分ずつ混ざり、もはや初代の血は2の何十乗分の1程度には薄められてしまっていることに矛盾を感じないだろうか?

人間社会が生き残らせてきたのは、知性をもとにした思想や技術、歴史であると言った方がいい。それは遺伝子が個々の生物に乗って増殖したり、突然変異したり、淘汰されたり、という進化の過程を経るように、ミームは人間が生まれ落ちて死ぬまでの身体活動に乗って、増殖したり、突然変異したり、淘汰したり、という進化の過程を経てきた。遺伝子がそうであるように、ミームもまた、増殖しようとする。そうすれば生き残るために有利だからだ。そのように考えると、「選挙」というのは極めて興味深いものに思えてくる。自己のミームの広がりを目に見えるかたちで確認できるものだからだ。多くの支持を集めたということは少なくとも対立候補よりは自分の持つミームが投票者たちに共有されているということであり、それはミームの生き残りに限りなく希望を与える。

厄介なのは、人種や遺伝的な障害を問題とするような単純な優生論を信じることもまた、ひとつのミームをなしていることである。それはナチスの過ちを経てなお、しぶとく生き残り続け、数を増やそうとしてきた。現代ではインターネットの普及、さらにSNSの登場が、それらのゆりかごになり、その爆発的な増殖を後押ししてしまっている。

それは増殖しようとして、それにより生き残ろうとする。個々のミームが正しいか正しくないかは、あまり問題ではない。残念ながらある種の擬似科学、ある種の迷信が、現実に誰かに危害を与えるようなものでありながらも、なお信じられ続けるのは、それら自身が生き残ろうとしているからである。そしてそのとき、科学的な正しさや現実的に明白な出来事や証拠はあまり問題にならない。なぜならそれらのミームを保持する人間たちはなんとかしてそのミームを生き残らせようとしているのであって、正しさを追求しよう、ましてや自分たちが誤っていたら考えを改めようなどとは思っていないのだ。

ここでふたたび優生論批判に戻る。ある人間社会で遺伝子的に働き、共同体を生き残らせるのは子どもを産むことだけではない。それは生き残るための一つの要素でしかない。障害者が子どもを産めない、LGBTが子どもを産めないと言って批判しても仕方がない、なぜならば彼らもまたミームのかたちで、共同体をなすさまざまな要素の担い手として、受け渡し手として、作用しているからだ。彼らはただ単に生きているだけで、何かを後代に残している。健常者と呼ばれる人たちがそうであるように。

そしてそれゆえに、もしLGBTを子どもを産まないということをもって生産性がないなどと言うのならば、障害者を生きているのが不幸だから安楽死させるなどと言うのであれば、僕はそういう考え方を、「極めて”非人間的”な考え方である」と断じる。

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