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関係するってなんだろう?

価値とはなんだろうか? 『遠くへ行きたければ、みんなで行け』という本を読みはじめてからその問いが頭の中をずっと、澱のように漂っていた。

価値をばら撒く、人々が受け取りやすいパッケージに包んで流通させることがだいじなんだという感想が残った。また、人々がコミュニティ活動をする理由って祈りみたいなもんだよなともおもった。


一緒にいたい、一緒に何かをやりたいなら遠くが必要だ


私が今所属しているコミュニティは職場と前職場と家族と群れ研究所だ。

群れ研究所には、私の他に3人の研究員がいて、私は記事作成をやらせてもらっている。記事作成をしようと思った理由のひとつに、日本語ができるようになりたいというのがある。もしも日本語ができるようになったら、どんな景色が見えるだろうか?その見たことのない景色は私にとって「遠く」だった。

群れ研究所は自然発生的なコミュニティなので目的地はない。けれど、私は他の3人の研究員と一緒に何かできることに感激している。

だから、この活動を継続していきたいと思っているけど、誰かひとりがそう思っていないなら活動の継続はむずかしいかもしれない。長い活動継続を望むには、各メンバーが活動に意義を感じていた方がよくて、コミュニティにとって遠いところを目指す方が結束しやすいよね。ということなのだと受け取った。

結婚とかも、幸せという遠くが必要なわけでしょう。


では、各メンバーがそれぞれ意義を感じるには、どうすればよいだろうか?それは各メンバーによるところなので私にはわからない。

しかし私には、各研究員のキャラクターにすげえよなあと思うところがある。それを多くの人に広げていきたいという気持ちがある。傲りだと思われるだろうか、わはは。

また、群れ系書籍の読書体験も自分にとってとて意義を感じるものだった。仕事の休憩中に終わらないおしゃべりをし続けるおばさんたちと同じ場所に詰め込まれても、おお、これが社交ね。この限られた時間で社交をするとは!人間してんなあ〜!と思うようになった(人類進化の謎を解き明かすを読んだ)

自分が価値を感じたものを知らない人にも感じてもらえるようなシステムづくりを考えて、そのシステムの評価を定量化できるような仕組みづくりを本書から学び、参考にしようと思った。

「群れプログラムを実践してみたけど、ダメじゃないですか!」というダメ出しがあれば、アップデートさせられる!というのは希望であり、そのために本を読んだりラジオ議事録を書くことは私にとって祈りなのだろう。


ここからは感想というより妄想を書き連ねてみる。本の内容とはつながっているとはあまり思えないけれど、思ったことなので読書感想文なのだろうか?


価値を分類できるだろうか?



価値は関係性に保存される。場は関係性を保護し、文化は関係性の維持コストを調整する。この時の価値とは人間の志向性だと思う、言い換えると希望だ。


社会関係資本のように、自分の感じた価値をコミュニティ活動を通じて関係性の中に置くことで保存が図れるのではないだろうか?それって祈りみたいなものだよね。

価値の形態


世に溢れる無限大の情報を価値とするには、「志向」される必要があると思う。私たちはほぼ無意識のうちに情報を受け取っている。そのプロセスで価値は存在しているんじゃないだろうか。私はこれを第一形態の価値と呼んでみた。

そして、それを保存することで第二の価値形態になる。保存先は関係性の中だ。この価値には、他人が触れることができる。そのため、ここでいわゆる有用性を帯びるんじゃないだろうか。

どんなに私が価値があるよ!と言っても、それが何も伝わらなかった場合、それって価値はどうなるの?という問いにこじつける形で価値の形態分類を試みている。価値があるのに、価値がないとされるのはやりきれないよ。誰かがわかってくれるかもしれないと思ってパッケージを調整しつつ、人々を媒介して価値の保存を図る。

「キョーミない」って人はたまに言うけど、そのキョーミっていうのはここの第二形態の価値なんじゃないかな。この価値を感じるには受け取る必要があるんだ。

多くの関係性、それも多様な関係性を持つ人はより多様な価値に触れることになる。インターネットを通じて出会った人にメシや金、家などを奢られるプロ奢ラレヤーは多くの価値に触れる。時には「呪い」を頼りに、やりとりから、その人が保存しようとした価値という水脈を見つけている。

価値を関係性の中に保存することで、私たちはより多く、大きくその価値を受け取ろうとすることも可能ではないだろうか?

今、最も信仰を集める価値のあるものはお金なんじゃないかな。紙幣はただの紙だけれども、その紙によって人々が動くということはその紙に価値を感じているということだ。マーケットが整備され、私たちは大半をお金で片付けられるようになった。これは、金融資本の分かりやすさと流通量の巨大さをあらわしてるんじゃないかな。お金ってわかりやすい。100円は100円だ!

他者などネットワークによって流通する価値の総量が増大されれば、私たちはより多く自分が価値を感じるもの、あるいはそれに類するものを受け取れる。お金って価値があるよね!って感じる人が多いと買えるものも増えていくのとおなじように。


私たちは価値の源泉にあたる志向性を自己として、そこから流れる水脈を価値と呼んでるのではないだろうか。

保存された、あるいは流通する価値にどれだけ触れられるかで強者・弱者の配置が決まると思う。

例えば、浮浪者は弱者であると誰かが言ったところで、別な人がその人の価値尺度でそうじゃないですよ。と言うことはあると思う。学生時代に先生が「ホームレスっていうのは、男の最大のロマンだよ」って言ってた。

だから、より多くの人が価値を感じているものは強い、それだけじゃないのかな。


それから、関係性って人間と人間だけで結ばれるものだけじゃないよな。ゴミと会話をする人もいるんだし、私たちに聞こえない声で通じあう共通の関心を持った何かと何かは存在するんだ。そうすると、ものすごく大雑把にいうと、関係するというのは環世界の移動ともいえるんじゃない。だって、価値が関係する人相互にとって同じ価値とは限らない。何を受け取って何を受け取れないかは思い通りにはならないよね。それは環世界みたいなものだとおもった。


私と家族は関係できているだろうか?

私は、その「関係の証明」として価値の第三形態があるんじゃないかなと思ったよ。だから、コミュニティ活動は祈りにもなるんじゃないかな。


つながれないひとは疎外感を感じるよね


弱者とか強者とかは扇情的なワードだよね。人々を生存競争の土俵に強制的に引き込む力があるからじゃないだろうか。弱者か強者かきめるのはその人自身ではないと思うんだけど、どうだろう。

ネットを見てると、井戸端会議をしていると、そういう煽情的な議論をよく見る。人々は闘いたいのか、暇なのか、引き摺り込まれた土俵でファイトしている。だけど、このファイトは紙相撲のように陳腐なものに思えてしまうから、弱者を疎外を感じている人と言い換えた方が私は気持ちがいい。金がない、それがなんだっていうんだ。職がない、スキルがない、それがなんだっていうんだ。金が大事、職が大事、スキルが大事、そういう価値が流通する社会があるだけじゃないのか?私はそういう価値を受け取らなきゃいけないのか?手は2本しかないのに?大事ではないと言いたいわけではない。社会を生きる上ではあればいいものだけど、それだけだったらあまりにも世界は平面的じゃないか?

疎外を感じているというのは、つながりを持てないということで、価値の保存された関係性から価値を受け取れない人じゃないだろうか。それじゃあ、つながって受け取ろう!ということになるかもしれないけど、ときどき人間が歪む気がする。受け取れないこともあるよ。だから受け取るのが大事なときに、同時に受け取らないことも大事なんじゃないかな。受け取らないこと認めて感じられる価値もあるはずではないだろうか。

not for me、
おもしろくないって感じることはないだろうか?それは自分が客じゃなかったということだろう。最近はそういう場合に、どんな人間が客なんだろう?と考えて足速に通り過ぎることにした。私は私がいいと思うものに、私の時間や資源を費やしたいんだ。受け取ることは受け取らないことでもあり、受け取らないことは受け取ることでもあるんだ。要は何を受け取って何を受け取らないとしたのか?ということだ。

これまでは価値を感じられない自分は感性が死んでるんだ、終わってるんだ、と悲観的に思っていた時期もあった。だけど、しょうがないよ。

相手や社会が望むように受け取らない・受け取れないということは、必ずしも私を疎外させるわけではないんじゃないかな。場には主従関係のような主導権があるかもしれないけど、関係性には主導権を持たせるか持つかの選択があるような気がする。

じゃあ、お前はどんどん偏屈な人間になるじゃないか?と突っ込まれそうだ。そうならないために、私は自分の感じた価値をパッケージを整えながら関係性に保存して、アップデートをはかり続けるんだ。ここではない、どこか遠くがある、と信じるんだよ。そうして、いつか自分の中にある価値を、純な結晶にして置いておくための場所を探しているのさ。


コミュニティ設計の方法論の話から、「関係するってなんだろう?」と思ったという話でした。次はなにを読もうかな・・・


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