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人格の疎密を平坦にして、生きた“ヒト”になりたいという話

間があきすぎて文章力がなまってきたので口語(音声入力)で言語化してみる.

最近思うようになったのは、

『ひとりの大人として、ひとりの人間としての基盤をつくりたい。』

ということ。

幼稚園からずっと狭いコミュニティの中に身を置いて、それが普通だと思っていたけれど、留学したり、インターンシップで実際の職場を目の当たりにしたとき、自分に最も足りない・今現状足りていない能力は建築とか芸術という具体的な知識や経験などではないことに気付いた。

このリアルの社会を生きていくために必要不可欠な、具体的に言えば、目の前の人と正しく情報交換をしたり、お互いの気持ちをよくしようと振る舞ったりなどという対人関係から、自分一人で生活するために必要な家事だったり、健康を維持するための運動だったり、仕事で疲れたときに自分でそれを解消すべく、趣味に勤しんだり・・・超大局的な話ではあるけれど、そういう生命として、また一人の人間としてこの世に生きているという、もっとも根源的な何かが欠けている。


二重人格?

もともと小学生になってすぐに、クラスの後ろの席に座っている人から嫌がらせのようなことを受けて、そのときくらいから家での自分と学校での自分が分かれていった。

家では可愛い子供としての自分。外では他人の目線や存在を常に意識していた。特に学校ではいじめられないように声を低くしてみたり、なるべく弱いところを見せないように家で見せるような自分の素顔は隠していた。

当時は“おとなしい”と言われることが良いことだとして、何を言われてもポーカーフェイスで口を開かないことが美徳であると考えていたかもしれない。

高校に入って周りに過去の自分を知る人がいなくなると、その主張の弱さ、言い換えればその強靭な環境適応能力が、一つであった元来の自分から抜け殻のように乖離し、生きているだけで温もりのない「対社会モード」として確立されていった。

***


ヒト > アジア人 > 日本人 > 性格

日本にいると考え方のスケールがとても小さくなり、いきなり性格や考え方の観点から人をグルーピングしたくなってしまう。マレーシアにいた時には少し違った感覚を覚えた。

そもそもマレーシアにいる人たちは人種から違う。最も最初の集合として“ヒト”が頭に浮かぶ。そして、“アジア人”として自分を見るようになる。次に国籍だ。どこの国から来たか、どういう文化を持っているか。その次にようやく性格と思想の話になる。

つまり日本にいると、ほとんどの人が共通な人種から国籍までの段階がふっ飛ばされて、いきなり小さなスケールから話が始まる。そうなると、人とどう違うか?というよりも誰と合うか・似ているかの方が大事になってくるのだろう。

マレーシアでは性格と思想のぶつかり合いではなく、一人の人間としての関係が際立っていた。

互いが“ヒト”として尊敬しあっていた。

言語が通じないからそう感じた可能性も否定できないが…
挨拶程度しか言葉を交わさなかったクラスメイトもいたけれど、誰もが隠し事をせず正直に、赤裸々に自分を表現し、人と接していたように見えた。

日本で街を歩いていると、やはり視線が気になったり全く他人ではあるけれど、例えるなら同じ学年の誰かに見られているような感覚があるのに対し、マレーシアだとどういうわけか、自分は一人の独立した人間として存在しているように感じられ、いくら他の人が何をしてようと「何やってるんだ?あいつ(笑)」といったような適度な距離感や妙な愛着のある人間味を感じられた。

社会にいる一人の“ヒト”として認められているような、もしくは逆に一人一人の価値はあまり重要視されておらず、自由にそこらへんを歩き回れるといった感覚。今まで感じたこともなかったある種の優越感のようなものに浸っていた。


時間と経験のずれ

日本が好きだという中華系マレーシア人の友達がいた。彼はもちろん。たまに提出物に間に合わなかったりしていたが建築の勉強はそこそこできていた。しかし、彼の一番の秀でたところはその上っ面ではなく“ヒト”として完成されていた根底にあった。コミュニケーション能力が高いという言葉で形容できるかもしれないが、そんな無機質な「スキル」のようなものではないように思えた。心の底から人と通じ合い、生物としての愛情のようなものをただ純粋に追求していた。

年は2つほど上だったと思うが、まったくそれを感じさせない。遠回りをしていようと、そもそも年齢とバックグラウンドは全く別のものとして考えているようで、会話上では障壁になるどころか、むしろその人を定義づける一つの要素として捉えていて、決してマイナスの意味は持たない。17歳で入学してきた人もいれば、彼のように22歳とかでディプロマ(短大)課程に入ってくる人もいる。(中略)


中身の重要性

今までは外側の知識・知恵があれば、能力が高ければ根本の人間性はそれほど重要ではないと思っていた。しかし、今こうやって親元を離れて働いてみると、自分にキツく当たってくる人もいれば、目頭が熱くなるほど優しく接してくれる人もいる。

正直、口下手な自分が将来一人だけで大成するような未来像は想像しがたい。優しい家庭・環境で育った自分はどうしてもそれを欲してしまう。

人との関係はどの国にいてもどの業界で働こうにも共通の言語である。もし優れた知識や経験があっても一人の生きた人間として心を交わし合えなかったら感情は動かないし、もちろんビジネスにもならない。

相手が野菜ジュースのような密度の人間味・愛情を持っていたとしても、こちら側が抜け殻同然では生きた意思疎通を図れるわけがない。そうなる前の準備として、最低でも一人の“ヒト”として心と心で対話できるような基盤が欲しい。


おまけ:2つの人格を繋ぐ

大阪に来て、関東にはなかった方言の魅力に気づいた。

標準語だと「タメ語」と「敬語」の2種類しか選択肢がないため、家族や友達には対個人的なタメ語、上の人や他人には対社会的な敬語というように、人格とセットで切り替えがされてしまい、外部の人には業務的な待遇をしてしまう。

しかし、方言にはどういうわけか心に直接話しかけてくるような透明性や、見る知らずの人なのに、幼少期から成長を見守ってくれた近所のおじさんのように感じられるときもあるくらい、今までの分類だと人との距離感が狂う。

今まで満たされていなかった友達と他人の隙間を埋める3つ目の間柄が生まれたような感覚で、これこそが幼少期から家の中と外で分断されていた自分の人格をつなぎ合わせ、公私の切り替えを緩やかにしてくれるのではないかとわずかに期待している。

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