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サバイバー

「久しぶり」
 わたしの顔を見るなり彼はそう言ったが、正直なところ、わたしは彼が誰だか覚えていなかった。
「お久しぶりです」
 誰だか覚えていなかったけれど、とりあえず無難な返事をする。
「……で、きみは誰?」
「え?」
「僕は正直なところ、きみのことを覚えていないんだよ」
「えーと……」
「おかしいなあ。僕はだいたいの人のことを覚えているんだけど……きみについては、さっぱり記憶にない」
 彼は心底不思議そうにわたしを見つめている。これはもう、自分も正直に伝えるしかないなと思った。
「すいません。わたしもあなたのことを覚えていないんです」
「やっぱり……」
「すいません……」
「いや、いいんだ。でもきみ、何か違和感はない?」
「違和感……ですか?」
「うん。僕を覚えていないというのは、ちょっとあり得ないんだけど……? だってきみ、女性でしょ?」
「……はい?」
 なんて自信過剰な人なのだろう。女性ならば誰しも、自分のことを覚えていて当然だといったような口ぶりだ。わたしは少し嫌な気持ちになる。
「あ、いや……ごめん。きみを不快にさせたのならば謝るよ。聞き方を変えようか。そうだな……きみはなにか、失ったものはない?」
「失ったもの……?」
 “失ったもの”と言われても、よくわからない。以前は持っていて、いまは持っていないもの──若さ? 熱量? 人に対する期待? 誰かに対する執着? それとも、あの決定的な夜に言い出せなかった言葉? 選択を間違えてしまった自分に対する感情? それでも自分の中にしか自分自身に対する責任の所在がないこともわかっている。とはいえ、もっとうまく生きることができたはずなのに。人生はもっと明るいと思っていたのに。いったいどこから間違ってしまったんだろうか。いまだなにも手にしていない自分を持て余しているこの空虚な肉体は、失ったものばかりで埋め尽くされていて、そんなわたしに向かって「失ったものはないか?」と問うこの人は、いまさら何を言ってるんだ。わたしはわたしでしかなくて、私でもワタシでもアタシでもないから、失ったものはないかと聞かれたところでそれは完全たる愚問だよねバカじゃないのコイツなんなのそもそも覚えてないヤツと話す道理なんてないんだから無理してこのよくわかんない相手の言葉を真摯に受けて返す必要もないってことそうそうそれだわ惑わされるなわたしはわたしなんだからコノヨクワカラナイヤツニドウチョウスベキデハナイ──。
「いや、違うんだ」
 わたしのことを、ひどく悲しそうに見つめる彼。その瞳には同情の色がわずかに見てとれ、わたしはますます苛立った。
「あなたは何が言いたいんですか?」
「もっとシンプルに……物理的に失ったものはない? と聞いているんだ」
「物理的に?」
「そう。物理的に」
 わたしは考えあぐねる。物理的に──肌のツヤ? キュッと上がったお尻? 黒々とした髪の毛?
「……そうか。きみはもはや、その域まで来ていたのか」
「その域? 言っている意味がわかりません」
「いや、いいよ。きみが僕を必要としていないのならば、それでいいんだ。見たかんじ、僕の代わりになる存在すら必要としていないみたいだから」
 彼は初めて安堵したように笑い、「じゃあね」と言って去っていった。

 あの人は、いったい何だったんだろう?

 全摘手術をして以来、皮膚の感覚がなくなった右胸をポリポリと掻きながら、わたしは首をひねった。

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