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チョムスキー

「ねえ、ぼくのチョムスキーどう思う?」

 トイレで用を足し、自席へと歩いている途中で、背後から突然声をかけられ驚いた。しかも、声をかけてきた人っていうのが、もう何ヶ月も片思いをしている、同じフロアのすごく遠い席に座っている彼だったから、わたしは混乱し、「はい?」とかんじ悪く聞き返してしまった。
「だから、ぼくのチョムスキー。どう? 変かな?」
 彼は不安なのか、眉をわずかにひそめて問いかけてくる。そんな表情すらも艶っぽくて、わたしはつい、彼をうっとりと見つめてしまった。
「……きみさ、ぼくの話聞いてる?」
「あ、はい。あなたの……チョムスキーですよね」
「うん。どう思う?」
 わたしは彼のチョムスキーをじっくりと観察した。いったい彼は、なにが不安なんだろうか。彼のチョムスキーは完璧だった。長さといい、黒さといい、硬さといい──まるで彼そのものが具現化されたかのような完璧さだった。はっきり言って、こんな美しいチョムスキーをわたしは見たことがない。

「あなたのチョムスキーは、完璧だと思います」
「……バカにしてんの?」
 彼はどうやらドSのようで、初めて話したっていうのに、とても高圧的だった。なんて素敵な人なんだろう。ドSのうえに、チョムスキーが完璧で、それなのに自分のチョムスキーに自信がないみたいで、トイレから出てきたばかりのわたしに、自分のチョムスキーを確認させるだなんて!
 わたしは彼のチョムスキーをさらに凝視し、やっぱり非の打ちどころがないことを確認してから、彼をまっすぐに見つめて答えた。
「あなたのチョムスキーは、完璧です」
「あ、そ」
 彼は心底ガッカリしたように、チョムスキーをピッと引っこ抜き、すたすたと歩いて行ってしまった。

 わたしは床に落ちた彼のチョムスキーを慌てて拾い、ティッシュにくるんでポケットにしまった。

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