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私が考えるに、cakesの炎上は、倫理と哲学の欠如が原因だと思われる 後編

真実というのは、虚実皮膜の間にある。

先月だったか、今年の秋に知人が、アニソンはダサくないよね、みたいなことを私に漏らした。紅蓮花がメガヒットを飛ばしているのに、アニソンをダサいと言っている人は果たして今の日本にいるのだろうか。私は思春期の頃に、声優にハマって、アニソンを聴くばかりか、声優が歌うソロアルバムを購入して愛聴していた。馬鹿にされて聴くのが恥ずかしくなり、次第に声優、および、アニメの世界から離れていって、10年ほど前から深夜アニメを見るようになった。確か、見始めた年にシュタインズゲートが放映されて、久しぶりにきちんとアニメを見た私は驚愕とした。LiSAの歌を初めて聴いたのは、Angel Beats! であった。私の記憶は確かではないのだけど、けいおん! を見たり、今はD4DJを見たりして、アニメライフを楽しんでいる。
私のアニメ声優趣味を馬鹿にしていた人は、新エヴァ3部作を見て感動したらしい。テレビ版エヴァを放映当時に見て、影響を受けまくった私から一言言わせてもらえば、遅い。

私には、アニメにおける空白の10年が存在している。

note公式が定義している創作なるものは、どうやら、私が定義している創作とは大きく異なることを、私は随分前から知っている。noteがオススメする記事を読んでも、私は芸術的感銘を受けたことが多分ないし、自身の創作について考えるヒントになることもなかった。
私はnote公式のアカウントをフォローしているので、タイムラインにnote公式の記事が流れてくるのだけど、今年買ってよかった物、というものが、創作にどのように関わってくるのか、私には分からないし、note公式の見本記事のようなものを3つ、ザッと読んで、辛くて最後まで読めなかった。私は、YouTubeでアップされている購入動画も、自分が興味のあるもの以外は、しんどくて見る気になれない。

私は、物を購入することに関して、罪悪感というのか、躊躇するところがある。ケチというべきなのか。note公式の見本記事のようなものに目を通して見ると、よくもこうも物を買って喜べるものだと思った。iPadを購入するのを躊躇って、使っていなかったiPhone5を引っ張り出してきて、YouTubeを流している私とは月とすっぽんである。
田中長徳がnoteを利用していることを、私は知らず、数日前に、あなたへのオススメの記事で知った。今、田中長徳は、クラシックデジカメ、オールドデジカメ愛好会みたいなものを立ち上げて、撮影会などの活動をしているらしい。私は斜め読みしているので、誤読もあると思うけれど、10年以上前のコンパクトデジタルカメラを愛好しよう、という趣旨らしい。
今のデジタルカメラの性能に不服で、現行のカメラの中に、自分の気に入るデジカメがないことを田中長徳は嘆いていて、そのことに関しては私も同感である。

Liaの歌もいいね。

私にとって、創作というものは、芸術に関することで、創作料理なるものが芸術料理と呼べるのか分からないけれど、ミスター味っ子のアニメは芸術の域だと思う。
何を創作とし、何を芸術とするのか、という問いに関しての明確な答えというのは、表現者の自身の創作、そして作品に関する以外は、必要ではない、というのが私の考えで、そうでなければ、創作された作品の多様性を否定することになるし、多様な作品批評も否定することになる。一つの表現論しかなく、一つの見方しかない、というのは全体主義である。

なので、note公式における創作と、私における創作の見解が異なることは理解出来る。note公式のオススメ記事が私の創作とは関係がない、というのも理解は出来る。note公式がオススメ記事を披露して、noteにおける私たちから、私が疎外され、排除された気持ちになるのも理解出来る。そのこと自体を、私は批判したいわけではない。
noteアプリの「見つける」で、note公式のオススメの記事が出てくるのはいいのだけど、あなたへのオススメの記事が4つしか出て来ないことが、私には不便なのである。私は、note内の記事が読みたくないわけではない。note内の記事の中には、私にとって面白い、読み甲斐のある記事も存在する。そこへ辿り着く方法をnoteはもっと真摯に考えてもらってもいいのだけど、note公式は、公式のオススメ記事を選ぶことに忙しいのか、あなたへのオススメを今以上に強化して、あなたにとってのオススメ記事、あなたにだけのオススメの記事というのを、利用者である私に読んでもらえるように真剣に考えているようには、私には考えにくい。せめて「見つける」で出て来る「あなたへのオススメ」の記事を4つではなく、10ぐらいに増やしてもらえればありがたいのだけど、多分、私のような意見は、note公式にとっては異端であり、聞く耳を持ってもらえるようには思えない。

私はサウンドクラウドでよく音楽を聴いている。サウンドクラウドには、私へのオススメのプレイリストがあって、私はそれを好んで聴いている。創作の刺激になったり、励みになったりする、ありがたい機能である。
価値観の多様性が言われて久しい今の時代に、noteのあり方は前近代と言われても仕方がないのかも知れない。
cakesを運営しているのと同じ会社らしいnoteの運営方法は、どうも一冊の雑誌を編集するような感じで、cakesに相応しい記事があるみたいに、noteに相応しい記事があるのだろう。それは、私の読みでは、ライフスタイルである。

ライフスタイルを日本語にすれば、生活様式になる。創作というのは、ライフスタイルなのであろうか。note公式は、noteで記事を毎日投稿することを推奨しているけれど、記事を毎日投稿することがライフスタイルだと仮定すると、府に落ちるところもある。

私にとって、創作とは、生活でも様式でもなく、人生である。

揚げ足取りのようなことを書いていくけれど、私はnoteの「みんなのフォトギャラリー」を利用していて、まもなく100枚の写真を登録するぐらいの勢いである。そんな私には、「みんなのフォトギャラリー」という言葉に違和感がある。どうしてフォトギャラリーなのか。私は写真ばかりを登録しているので、フォトギャラリーで何も問題はないけれど、「みんなのフォトギャラリー」にはイラストなども登録されている。イラストはフォトではない。つまり、言葉として正確ではないのである。
正確に言葉を用いるならば、「みんなのアートギャラリー」とでもするべきで、アートというのが漠然とし過ぎているのならば、「みんなの画像作品のギャラリー」というのが正確なのではないか、と思われる。私はコピーライターではないので、ビシッと来るタイトルを思い付かないのだけど、noteを運営しているスタッフの中には、プロのコピーライターがいるのではないだろうか。もし居ないにしても、私なんかよりは優れたコピーライティングの能力を持ったスタッフがいるはずである。
私としても、別に「みんなのフォトギャラリー」という名前で構わない。これは、名目上の名前で、その中にイラストなどがあったとしても、不服があるわけではない。
私が言いたいのは、言葉に関して、正確性に欠ける、すなわち、言語センスの杜撰さである。

note公式は、わざわざ私個人の意見など聞き入れないだろう。何故ならば、私は無名な一般人で、インフルエンサーのように影響力を有しているわけでもなく、取るに足りない利用者の1人に過ぎないから。
だから、私の意見は少数派であり、異端であってもおかしくはない。私たちから零れ落ちる私である1人1人を気にしていては、運営など出来ないであろう。
私たちから零れ落ちているような私に出来ることと言ったら、拗ねてみせるか、サイレントマジョリティーを演じるぐらいのことで、問題は、cakesの記事が炎上していることである。

みんなのフォトギャラリー、という言葉には、写真以外の画像作品は含まれない。実際には、イラストなども多数登録されていて、写真以外を登録してはならない、とnote側が規制しているわけでもない。なので、問題は表面化されていないけれど、みんなのフォトギャラリー、という言葉には、写真以外の画像作品への排除の意味合いが込められている。勿論、note運営側は、排除しようなんて一切考えてはいないだろう。単純に、写真が多いだろうからフォトギャラリーにしたぐらいの感じだと私は想像しているのだけど、言葉の意味合いとしては、写真以外の画像作品を排除しているのだ。
意識的に、意図的にフォトギャラリー、という言葉を選んだのならば、まだいい。もしも、そういうことを考えずに、ある種、無邪気にフォトギャラリーという言葉を選んで使用しているとしたら、私たちから零れ落ちる私という存在を、まったく視野に入れず、なかったことにしていることになる。そして、私は、そうだろうな、と思うから、note運営側に、「あなたへのオススメ」の記事の表示数を増やしてほしいと直接お願いしないのである。
従業員のことを考えようとしない社長に、仕事上の要望などを言っても仕方ないと分かり切っているので、不満を抱えたまま黙って仕事をする社員のようなものである。そういう社員は、愚痴るか、サイレント・ヴォイスするか、どちらかしかあるまい。

私たちから排除される私というものを理解する為には、倫理と哲学が必要となる。
私たちの理解の及ぼない私たち以外なる存在のあり方に気づくには、私たちのことばかりを考えていてはダメだからである。

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