神社神道と古神道は和合すべきです。

私が最近考えていることは、神社神道と古神道は和合すべきだということです。
古神道を信奉している一部の方の観点から見ると、神社神道は明治以前の伝統を断ち切り、新たに再構築された神道という誤解があります。
しかし、祓詞に関して言えば、平田篤胤の「毎朝神拝詞記」にもある「18拝祓處神達詞」など、神社神道にもしっかりとした作法が存在します。
例えば、「自祓は斎館で祓詞を小声で唱え、小麻で祓う」といった具体的な作法がありますし、事情によりそれが難しい場合には、祓主が祓詞を唱えることで自らを祓うことができます。

確かに、禁厭や神道の術はほとんど伝承されていませんが、古神道の文献にはその記録が見られます。ただし、古書はともかく、最近出版されたものでは唱える言葉が改変されていたり、
神道団体から流出した内部文書には口伝が欠落していたりすることがあります。
そもそも、伝授がないと霊脈がなく、効果がないのですが、まれに神祇との結縁によって効果があるということもあります。

また、神社神道には魂入れの術がなく、神社のご神札に魂が宿っていないという意見もありますが、ご神札は神社のご神前に安置された際、自然と御神霊が宿るものです。
これは、ご神体とご神札を混同している問題があるようです。
神社でご神札を受けた後、社頭でご神札を奉持して古神道の本に書いてあった方法で自分で魂入れする人もいますが、それが実際にご祭神の分霊を宿すかどうかは、その人の霊力に依存します。

誤解の無いように言いますが、「古神道を信奉している一部の方」とは古神道の団体関係者等でなく、古神道の書籍を読んだだけの初心者やそれに準ずる方です。

神社神道側からも、古神道を俗神道や新興宗教の一種、または道教や陰陽道の術を使う非純粋な神道と批判する声があります。
しかし、国学者の批判を踏まえつつも、明治以前の神道を見直し、秘伝として伝えられている教えを守っているのですから、双方の理解が求められます。

毎朝神拝詞記、18拝祓處神達詞

掛も畏き伊邪那岐命、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、御禊祓ひ給ふ時に生れ坐る祓戸の神等、万の禍事・罪穢を祓ひ給ひ清め給ひて神事をも善(うる)わしく、
仕奉らしめ給へと畏みも拝み奉る。

あと、余談ですが、国学者が既存の唯一神道を批判したこともありましたが、平田篤胤は「俗神道大意」の後に「ひとりごと」を著して、
批判を一部、撤回してます。

毎朝神拝詞記にある、3拝太元尊神詞とあり造化三神を太元尊神と表現してます。
ただ、太元尊神というのは○○神社の大神を○○大神と呼称しても、○○大神とは記紀に記載のある神祇をご祭神として総称している場合と同じではないかと思います。
大元宮の神様という意味ですね。

余談ですが、国学者たちの中には唯一神道を批判する者もいました。その一例として、平田篤胤は「俗神道大意」での批判の後、「ひとりごと」という著作を通じて、その批判の一部を撤回しています。

「毎朝神拝詞記」には「3拝太元尊神詞」があり、造化三神を太元尊神と表現しています。
この太元尊神という表現は、ある神社の大神をその神社名の後に「大神」と付けて呼称することと似ています。
これは、記紀に記載された神祇をご祭神としていても総称して、神社名の後に「大神」としています。○○神社なら○○大神となります。

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