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【コラム】運慶の話、そして演奏すること

夏目漱石に「夢十夜」という夢の話を集めた異色の短篇があって、その一つに運慶が出てくる。護国寺の山門で、運慶が仁王を刻んでいるという評判がたって、散歩ながらに行くとたくさんの人が集まってしきりに下馬評をやっている。そもそもこの時代に運慶は生きてはいないのだが、そこは夢の話。

辻待ちをしている車夫が「大きなもんだなあ」と感心し、「人間を拵えるより余程、骨が折れるだろう」などと言っている。運慶は見物人の評判など頓着なく、鑿(のみ)と槌(つち)を動かして、一向に振り向きもせずに仁王の顔の辺りを彫り抜いていく。

槌を打ち下ろし硬い木を一刻みに削って、厚い木屑が槌の声に応じて飛んだと思ったら小鼻の開いた怒り鼻の側面がたちまち浮き上がる。その刀の入れ方がいかにも無遠慮で、少しの疑念も挟んでないように見えた。

「よくもまあ、無造作に鑿を使って思うような眉や鼻ができるもんだ」と独り言を言ったら、若い男が「あれは鑿で作るんじゃない、眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。土の中から石を掘り出すようなものなのだ」と言う。

 自分は、そうか彫刻とはそんなものかと思い、それなら誰にでもできると、早速家に帰り、道具箱から鑿と金槌を持ち出して薪にするつもりの硬めの木を威勢よく彫りはじめる。ところが仁王は見当たらない。二つ三つと彫るも仁王を蔵しているものはなかった。明治の木には到底、仁王は埋まっていないのだと悟り、運慶が今日まで生きている理由もほぼ解ったというのだ。漱石の小説はここで終わる。

 木にはあらかじめ仁王などはいない、想念の中にくっきりと仁王はいるのだ。運慶の想念の中に仁王がいるからこそ、手が動きそこに像が立ち顕れる。このことは音楽を奏することにも通じる。音符をいくらなぞっても音楽は生まれない。奏する者の心に明確な想念がなければ音楽というかたちに顕れはしない。

 鎌倉時代にあって明治に失くしたものは何であったか。漱石の言いたかったことはともかく、何かを創り出すときの大切は、ものの正体を見つめ、見極める洞察と真理を求める心の働きなのだと思う。

100年、200年の時を経て、クラシック音楽が今日なお演奏され多くの人の胸を打つわけも、そこに豊かな想念を導くに足る深々とした純なる精神と、その力が蔵されているからではないか。奏する者がその精神の水脈に辿りついて初めて聴く人の魂を揺することができるのだ。

(2023.7 ハーモニカライフ101号に掲載)

岡本吉生
-Profile-

日本唯一のハーモニカ専門店「コアアートスクエア」の代表。教室を主宰するほか、1996年にはカルテット「The Who-hooo」を結成。全国各地に招かれて演奏活動を続ける。
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