2017年 02月 27日

卓越した人になることを、求められても困る。というより、迷惑だ。と感じる。そんなことばかり求められても無理だしイライラする。
イライラというのはその相手に対してではない。何に対してなのか、本当に全然わからない。

褒める意味とか、評価していることを伝える為に言ってくれているのは重々承知だし、これの反対に完全に舐められていると感じたり、一切期待していないということを日々伝えられたら、生きていくことが出来るのかどうかさえ危ういわけだから、ここに書こうとしていることは、文句ではないつもり。

海外に行くチャンスがあるのに、どうしてチャレンジしないのか。英語なんかやればいいだけの話で、誰でも出来ることなのに、実力があるのに、それをやらないのは、責任を果たしていないと思える。と、言われても、私は事務職が気に入っていたし、責任を取るよりも、責任者のもとで文句を言い言い働く方が向いていると、ずっと感じていた。私は子供のころからずっと、目立たなくて、引っ込んでいて、幼かった。キラキラした人たちを見て、私とは違うと眩しく眺める存在。そちら側に行きたいような行きたくないような。でもそんなキラキラな人たちと仲良くなれるはずなんかないと思っていた。

高校生になってもそれは変わらない。オシャレだったり、賢かったり、流行を知っていたり、ともかく、誰もかれもが私の遥か彼方にいるように感じていた。仲良くしてもらえても、分をわきまえないといけない、調子に乗ってはいけないと思っていた。
そもそも、話す言葉、選ぶ単語からして違っていた。すごいところに来てしまった。と思った。

こういうのを自己評価が低いというのだろうか。

大人になって、どんどんと素敵な人に出会っていく。自分自身が変わらなくても、直接仲のいい人のレベルが上がっていくと、自分もなんだか、あっち側の人になったような錯覚をする。
例えば、世界が違うから気が合わないとか、自分がみじめに見えるから素敵な人と一緒にいたくないというような気持にはなったことがなくて、私の自己評価は「素敵な友達がいること」に寄りかかっていた。変な人に嫌なことを言われたとしても、「あんたの友達より私の友達の方が素敵だから負けない」という寄りかかり方。

ここには、実家がお金持ちでそもそも貧乏を知らないという人がたくさんいたけれど、そして私だけ庶民育ちだったけれど、そういう訳で、その点で卑屈になることはなかった。なのでお金持ちの人とも仲良くすることが出来た。そもそもお金持ちの家に育った人の多くはとても素直で優しい人が多い。

東京に行くと更にすごい人たちに出会う。でも、そのころには私の中での優先順位がわりと出来ていたので、あまり混乱することもなく、相変わらず好きな人とだけ仲良くして、気持ちよく働いていた。でも、出世したいとか、海外に行って更に上を(上なの?)目指したいとか、そういう風には思わなかった。

なのに、

上を目指さない、目指そうとしない私は、あそこではロールモデルとしてはふさわしくない。言われていることは正しい。でも、そうなりたいという気持ちが全然沸いてこない。そっちじゃなくてこっちがいい。

そして、こっちの道では、多分、「すごくない一般の人」として生きていくことになる。それでも良かったのかもしれない。けど、誰かの期待を裏切るような気がする。誰の?

いつのまにか、多分だけど、私の周りにいる「お友達」の中に、かつての私のように「お友達によりかかる」人がいて、一流企業に勤める優秀で前向きな私と友達でいることが、重要だと思っている人がいるのかもしれなくて、一流企業に入ったものの、うだつが上がらず、期待もされないけど生活の為にしがみついているみたいな私ではいけないと思われているのかもしれなくて、でも、このまま
いったら完全にそれになる。しがみつき系OLでいることが悪いことでは全然ないし、これは、私が感じたこと。

世間的な素敵さ、キラキラした素敵さをまとった人たちと仲良くなることで、私もいつのまにか、人からそう思われるようになっていたのかもしれない。全然、中身は変わっていないのに。変わっていないのかな。多分、基本は変わっていない。

「どうしてチャレンジしないのかの答え。そもそもチャレンジするような性格じゃないから。日々をコツコツ頑張るタイプなんです」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?