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デビュー20年経ってもペンネームに慣れない

先日Twitterで楽園行の話題を見かけて知ったのですが、ゲームシナリオライターとしてデビューして20周年だったようです。
正直なところ、20年途切れなくシナリオの仕事があったわけではないので経験年数を数えるときにいつも困ります。
ともあれ20周年ということと、Twitterの字数制限からnoteの字数制限なしへの移行ついでに振り返ってみようと思いました。

楽園行はAliceBlueというBLゲームを作るブランドから発売された大人向けBLゲームです。
当時女性向けゲームというと、コンシューマのルビーパーティさんかPCゲームのBLブランドくらいしかなかった時代で、その中でもAliceBlueさんは老舗の男性向けアダルトゲームメーカーの姉妹ブランドということもあり、信頼と実績のあるブランドでした。
楽園行発売に至った経緯としては、公式サイトにあったシナリオライター募集に応募したのがきっかけです。
その際に送った楽園行の企画書から、自分でシナリオとスクリプトを書いて実機で動くようにするという、今でいうトライアル(無償)的な機会をいただいて、完成したら買い取り→発売になった感じです。
もともと小学生くらいからこそこそ小説を書いたり、ネットで二次創作や小さな同人ゲーム作ったりしてましたが、こんなに長い文章(といっても普通のノベルゲームに比べれば短い)を書いたのも、まともにゲームシナリオ書いたのも初めてで、ノウハウも何もなくえらく苦労したのを覚えています。
一方で学校では小説家を目指すための食い扶持にしようとプログラムを学んでいたので、スクリプト作業は簡単でした。
ゲームシナリオを書いていることは誰にも言ってなかったので、当時唯一やり取りをしていたAliceBlueのふみゃさんが面白いと思ってくれればいいやという気持ちでした。
たしかシナリオ完成時AliceBlueでは俺下の開発中で、楽園行の開発はその後少し時間を経て始まりました。
スズケンさんのキャラデザが送られてきたときは(今考えるとびっくりですがFAXでした)感動したのを覚えています。
でも発売された時はパソコンの中だけでの出来事が現実になってしまったような、取り返しのつかないことになったという気持ちでした。
トムというペンネームを決めたのは開発中で、チームのみなさん苗字のない短めの名前だったことから、それに倣って誕生日の語呂合わせで決めました。
以来20年使ってますが、トムですと名乗ったことや呼ばれたことは10回もいかないくらいな気がします。
最近はやや増えたかな…?
結婚して旧姓ができると余計にややこしくなって、何を名乗ればいいかわからなくなります。
コンシューマゲーム会社での仕事が旧姓だったため、一応書いた方がいいのかなというのがあったんですけど、経歴としてはもうだいぶ古くなったので、そろそろ省略していいのかな。

そんなこんなで「楽園行」が発売されて評価は散々でした。
敗因はAliceBlueのカラーや当時の一般的なBLから外れすぎてたことだと思います。と、今だからこそ冷静に考えられますが、長らくこの時のことはトラウマでした。
そんな中でも好きだと言ってくださる方もいらっしゃったのですが、あの頃は批判に押しつぶされてうまく受け止められませんでした。今は本当にありがたいと思います。

楽園行発売後、大阪に引っ越してAliceBlueチームでアルバイトとして働くも、まもなくAliceBlue開発凍結。男性向けチームへの異動も考慮してくださったのですが、もともと女性向けゲームを作りたかったため実家に戻りました。
こう書くとなんだかなあなんですが、若かったのでこういうこともあるのかなくらいに思ってました。10年以上経ってそうそうないなとわかりました。
とはいえ、AliceBlueのみなさんには一般常識からして危うい若輩者を温かく迎えてもらって色々とお世話になった記憶しかありません。

その後なりゆきでフリーランスになったものの、特に仕事もなく、AliceBlue同人イベントでスズケンさんと再会して同人ゲームを作りませんかという話になりました。グラフィック系はスズケンさん、シナリオスクリプト系は私が担当して「天狗の八衢」を完成。
色んな視点からの群像劇的なものをやってみたかったのと、ゲーム性のあるゲームを作りたかったので楽しかったです。初めてコミケに参加したのもいい思い出になりました。

この頃BLゲーム雑誌の繋がりから声をかけていただいて、PIL/SLASHさんでBLゲームを作ることになりました。
企画はPIL/SLASHの方からアイデアの提案があったので、それを元に膨らませていきました。
スズケンさんが9割アダルトシーンにしよう的な高いハードルを課したので、クリアするのに2人で大変な思いをしたのを覚えています。もともと書くのが苦手で遅かったところに一生分のアダルトシーンを書いた気がして、自分で書くのはもういいかなと思いました。
一方、双子という設定を使った全体の二重構造はなかなか面白いことができてよかったです。あの話でやる必要あった?という感じですが、まあ…。
それと初めてのボイス付きゲームで、色々衝撃でした。内容が内容だけに…。シナリオからボイスのイメージを考えるという経験も初めてだったので新鮮でした。
収録立ち会いも主人公の分だけした気がするのですが、精神的疲労が激しかったような。そもそも自分が書いたものを読み上げられるという経験がなかったので…。
脚本出身の方は抵抗ないというか、それが当たり前なのだろうなと思います。
でも立会いのおかげで、ボイスがつくシナリオというのを意識できるようになりました。また、今回はブランドカラーも事前情報も一貫していたので発売後はおおむね予想通りの反応で、ネタとして楽しんでくださる方も含めほっとしました。

その後、ずっと作りたかった乙女ゲームの企画を持ち込み、スズケンさんの三国志ネタというアイデアが通って「三国恋戦記」を開発することに。
今回は、面白いものを作るという根底はそのままに、その上で売れたい、メジャーになりたいという目標を掲げて、一貫して王道とキャッチーを目指した記憶があります。とはいえ開発陣の嗜好が軒並みニッチ方向が強めだったので大変でした。
タイトル、ビジュアル、プロットシナリオ、演出、キャスティングあらゆる面で王道を目指し、売れるために考えつくあらゆることをやっていたらキャパオーバーし、報酬交渉という知恵もなく食べていけなくなったのでコンシューマゲーム会社に就職しました。
シナリオの物量も大変なことになったので、初めて他のシナリオライターさんにお願いすることになり、プロデューサーの紹介で宙地さんが参加されました。

コンシューマゲーム会社では、職務経歴として書いたBLゲーム開発の経験について陰でコソコソ言われたりもしつつ、色々と勉強させてもらいました。
フリーランスが長かったせいか、会社員としての業務のあり方に慣れず、結局フリーに戻りました。安定しないという難点はありつつも、責任の範囲が明確なフリーランスの方が向いているのだと思います。
当時、会社の人に三国恋戦記の担当箇所を話したら、1人で作ってるの?と聞かれたことをいまだに覚えています。今考えると明らかにやりすぎだったんですが、そのあたりの取捨選択もできなかったし、PCとコンシューマで開発規模が違いすぎたんですよね。

そんなこんなで長らくの開発期間を経て三国恋戦記が発売。おおむね好評を得てほっとしました。
開発中は本当に大変だったので、報われた気がしました。思い出そうとすると大変な記憶ばかりですが、好きな乙女ゲームで好きな異世界トリップものができてよかったです。

次のタイトル「ヴァルプルガの詩」も売れなければ、という強迫観念にも似た思いを持ちながらスズケンさんと企画を考えた気がします。PCゲーム開発もどんどん開発費がかかるようになって巨大化しがちな中、どうすればこじんまりとしたサイズ感で結果を出せるだろうと。
今までにない方向、キャッチーさを目指して意気込みすぎたのと、前作の精神疲労から抜け出せなかったのとでスランプに陥り、3Daisyさんには多大なご迷惑をかけてしまいました。この時のことから、自分より年下の方からの大抵のことは迷惑と感じなくなりました。

この頃から三国恋戦記の影響もあって、アイディアファクトリーさんなどから乙女ゲームの仕事をいただく機会が増えました。
「ヴァルプルガの詩」開発開始ごろからスマホゲームを作ってみたいと思っていたものの、なかなかご縁がなかったところに「A3!」の仕事のお話をいただきました。
「A3!」ではプロットをいただいてシナリオに起こしていくという形で、自分だけでは考えられない物語を描く経験をさせてもらっています。
多様なメディア展開含めて、売れるとは、メジャーとはこういうことなのかというのを初めて知り、呪いじみたものが浄化されたような気がします。

こうしてぐだぐたと並べてみて思ったのですが、自分の根底にはずっと「楽園行」の評価とAliceBlueの開発凍結があったのかもしれません。
ここ数年でプライベートでも変化があって仕事との付き合い方も変わり、20年経ってようやくフラットな感じで仕事に向き合えるようになった気がします。
この先は好きだと言ってくださる方を大切に、何かを返せるように時間を使いたいと思います。
これからもよろしくお願いします。