第44話 友人の話-声
ハヤシくんは、霊など見たことはないという。
「ただ、おかしな声なら聞いたことあるで」
父親の転勤で、奈良のとある街に引っ越した直後だった。
隣家から、「死ね」という中年女性の声が聞こえた。
隣家は住まいと小さな教会が一緒になった建物で、中年の牧師夫妻と牧師の父親らしき老人が一緒に暮らしていた。
道で会えば、あいさつをするので、ハヤシくんもすぐに顔を覚えた。
40代とおぼしき奥さんは、小太りでいつもにこやかに笑っているような人。
お爺さんも牧師さんも、とても穏やかな人たちだった。
その家から、「ジジイ、死んでしまえ!」という声がひっきりなしに聞こえてくるのだ。
奥さんの声だった。
「ひどいことを言うな」
子供心にも、ハヤシくんはそう思った。
母親に話してみると、「聞き違いだろう」という。
ただ、お爺さんに痴呆が少し入っているようだから、介護で少し苛立つことは、あるかも。
そう聞かされても、ハヤシくんの気持ちは落ち着かなかった。
なにせ、あたりが静まった夜など、闇を切り裂くような甲高い声で聞こえてくるのだ。
にもかかわらず、街で見かける隣家のおばさんはいつもにこやかで、あんな風に怒鳴り散らしている人にはとても見えない。
そのうちに、ハヤシくんは気づいた。
「聞こえてたのは、俺だけやってん」
ある夏の夜、夕食を終えて家族でテレビを見ていると、また隣家から怒鳴り声が聞こえた。
「ジジイ、殺してやる、殺してやる!」
テレビの音が聞こえにくく感じられるほどの大声だった。
ひどいよね、とハヤシくんが言うと、両親はキョトンとするばかり。
そんな声などしなかった、という。
どういうことなのか……。
だがとりあえず、隣家の怒鳴り声は自分にしか聞こえないものなのだ、とハヤシくんは理解した。
その後数日、今までにない激しさで、「殺してやる」の絶叫が続き、それからパタリとやんだ。
おばさんも、さすがにひどいと思って改心したのか。
ハヤシくんはホッと安堵したが、隣家のお爺さんが亡くなったのは、その週末だった。
浴槽の中で溺れていたという。
葬儀に参列したハヤシくんは、怖くておばさんの顔を見ることができなかった。
ミサの間、ずっと声が聞こえていたからだ。
「神さん、どうや神さん、って言いながら、笑ってはった」
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