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第32話 友人の話-噛むもの

カワウチくんの仕事は、ときおり田舎への出張がある。
泊まりになると、宿泊施設を見つけるのに苦労することも多い。

「あのときは、その民宿しかなくてな」

仕事が終わり、予約してあった宿に着いた時には、すっかり日が落ちていた。

北側に里山を背負い、前はうっそうたる竹藪という、ひどい立地の民宿だった。

「風が抜けないのか、ひたすらジトッとしてるねん」

部屋に案内してくれたのは、80歳はゆうに超えている老人だった。

2階へと案内される途中、老人が不意に咳き込んだ。
激しい咳とともに、なにかが階段に落ち、玄関先まで転んでいった。

「おじいさんの入れ歯やった」

聞けば、一緒にやっていたおばあさんが寝込んでいるため、もう長く一人で切り盛りしているという。

えらいところに来てしまった、と思ったカワウチくんだが、仕事柄トンデモ宿には慣れている。
早めに寝て、朝一で出ればいいだけ、と腹をくくった。

ただ、部屋に入ってしばらくして、奇妙なことに気づいた。

古い和室である。
床の間には色あせた山水画の掛け軸。
脇にある飾り柱は、太い孟宗竹だ。

その孟宗竹に傷がある。
上から下まで無数の傷。
よく見ると、それは人の歯形だった。

おかしな客を泊めてしまったのだろう。
カワウチくんは、先ほど案内してくれたおじいさんに同情した。

その夜、カワウチくんは怖い夢を見た。
どことは知らない山道を歩いていて、サルの群れに襲われる夢だった。

無数のサルたちにふくらはぎをさんざん噛まれて、「痛い痛い」と叫んだことは、起きてからも覚えていた。

ひどい夢を見た。
そう思ったのだが、浴衣を脱ぎ、靴下をはこうとして身体が固まった。

ふくらはぎに歯形がついていたのだ。

「ちょっと血がにじんでるのもあって」

眠っているうちになにがあったのか。
薄気味悪く感じた彼は、部屋の様子を確かめた。

ドアの鍵は締まっていて、寝る前にかけたチェーンもかかったままだった。

ただ、洗面所の床に、奇妙なものが落ちていた。

黄色く汚れた入れ歯だった。

カワウチくんは朝食もとらずに宿をチェックアウトした。
歯形は1週間ほどで消えたという。

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