第36話 友人の話-チクリ
最初は名前を呼ばれるだけだったという。
「ミヤワキ」
通勤途中、駅の階段を駆け上がっていると、ふと自分を呼ぶ声がした。
ミヤワキくんは振り向いたが、雑踏の中、声の主が誰なのか、わからない。中年男性の声だったようにも思うが、ラッシュ時のターミナル駅は、オジサンだらけだ。
聞き違いか、それとも自分以外の「ミヤワキ」を呼んだ声だったのか。
それ以上呼びかけてくる声がなかったので、そう判断することにした。
次の同じ声を聞いたのは、近所のパチンコ店にいたときだった。
振り向いてみたが、彼の背後には誰もいなかった。
「おかしいな、って思ったのはそのときやった」
耳を聾する騒音の中、声は耳元で彼の名を呼んだ。
振り向くまでの一瞬で、動ける距離は限られている。
その範囲に人影はまったく見当たらなかった。
それから時々、ミヤワキくんはその声に呼ばれるようになった。
場所はさまざま。
コンビニでも呼ばれたし、スーパー銭湯や出張先の土産物店、会社の廊下で呼ばれたこともあった。
気持ちが悪かったが、生来のんびりした性格の彼は、特になにも対処しなかった。幸い、家の中で呼ばれることはなかったので、「そのうち収まるだろう」と考えていたらしい。
声を覚えたので、呼ばれても振り向くことすらしなくなった。
「それが、あかんかったのやろか」
あるとき、声に呼ばれて無視していると、うなじになにかがチクリと刺さった。
極細の針。
それが皮膚を突く感触があった。
仕事先に行くため、車を運転している最中だった。
「あ、痛っ」
車を路肩に駐め、うなじに手を当てた。
血は出ていなかった。
さすがに少し怖いものを感じたが、仕事先でトラブル処理に追われ、おおわらわしているうちに、「まあ、いいか」となった。
以来、呼び声は「チクリ」を伴うようになった。
脚や腕、背中など、突かれる場所は時々で違った。
だが針先が皮膚をつつくだけで、驚きはするが、慣れてしまうとそれほどの苦痛ではなかったという。
「人間、なんにでも慣れるもんや」
そのうち、ミヤワキくんはチクリにも驚かなくなった。
と、次に訪れたのは「ブスリ」だった。
呼び声とともに、突いてくる針が皮膚を突き破ったのだ。
会社でパソコンに向かっているときだった。
予期せぬ痛みに、ミヤワキくんは飛び上がった。
もちろん背後には誰もいない。
そそくさとトイレに入り、鏡に映してみたところ、背中に小さく血がにじんでいた。
「針が入ったのは、数ミリくらいやったと思う」
さすがに怖くなったミヤワキくんは、知り合いの父親が住職を務めている寺に足を運んだ。
「正体はわからへんけど、生きてる人のなにかや、ってことやったわ」
いわれて、ミヤワキくんには少しだけ思い当たることがあったが、住職には告げなかった。
お祓いを受けると、呼びかける声はやみ、ブスリもやんだ。
半年も過ぎると、日々忙しいミヤワキくんは、そんな出来事のこともほとんど思い出さなくなっていた。
だから正月明け、初出勤の朝に、駅のホームでその声を聞いたときには、すぐにあの声だと思い至らなかったらしい。
「ミヤワキ」
振り向こうとした瞬間、痛みがやってきた。
「今度はチクリでもブスリでもなく、グサリやった」
深々と刺さった針の痛みに、息が詰まり、膝を突いた。
なんとか身体を起こし、ヨロヨロと駅のトイレに入ってみると、腰の後ろから血が一筋あふれ出ていた。
ミヤワキくんは先にお祓いを受けた住職に相談し、本山の高僧を紹介してもらった。
「高くついたで」
以来、数年にわたって、呼び声を聞いていないというが、ミヤワキくんは懐疑的だ。
お祓いはいつまで効くものか。効き目が切れたら、次はどのくらい深く刺すつもりか。
「恨み買うようなことは、するもんやないで」
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